「岸恵子 わたしのままに」イヴ・シャンピ以前2011/04/26 07:00

 BSプレミアムの「邦画を彩った女優たち」、「岸恵子 わたしのままに」も 見た。 岸恵子が横浜生れ(昭和7(1932)年8月)というのは知っていた。  12歳の時、昭和20(1945)年5月29日の横浜大空襲に山下公園で遭い、子 供はここへという軍人の指示で入った防空壕に危険を感じ、ひとり自分の意志 で離れた後に、防空壕が爆発した。 12歳で「自分の意志で決めることにし」 「子供をやめた」と、話した。

 デビューから2年、昭和28(1953)年の『君の名は』のヒットに至るまで、 松竹で貼られたメロドラマ女優のレッテルにずっと違和感を感じていた。 木 下恵介監督の『女の園』(昭和29年)で、自立し自己主張する女子大生を演じ、 メロドラマ女優から新境地を拓いたと好評だった。 「私は、もともと社会派」 と。

 昭和28年に日活の引き抜きを防止するために出来た五社協定で、年間一本 しか他社作品に出られないことに反発、久我美子、有馬稲子と三人で、独立「文 芸プロダクション にんじんくらぶ」をつくる。 アプレ・ゲールをもじって、 アプレ・ガールといわれる。 今井正監督の『ここに泉あり』(昭和30年・中 央映画作品)に出演。

 小津安二郎監督が、従来の路線を離れた『早春』(昭和31年)で、妻のいる 池部良を誘惑する(その新路線の)OLの役に起用され、「あんたは不良が出来 る、しかも、きれいに出来る」と言われた。 『早春』のお好焼屋の小部屋で、 岸が池部に抱きついて、女中がやって来るシーン(実は呼び鈴を踏んでしまっ ていたのだが…)は、私も鮮やかに記憶していた。 私は中学2年生だった。  小津は、つづいて岸恵子で『東京暮色』を撮る計画をたて、脚本にかかってい た。 その昭和31(1956)年、23歳の岸恵子は(岸が高校時代に魅せられた 『美女と野獣』の)ジャン・マレーと共演した日仏合作映画『忘れえぬ慕情』 で、イヴ・シャンピ監督に出会うことになる。