桃介と松永安左エ門、水力発電計画2011/06/10 06:08

 松永安左エ門は、明治22(1889)年に15歳で慶應義塾に入ったが、明治26 年に郷里壱岐で酒造業などを営んでいた父の死去にともない義塾をやめ、家業 の整理に当たった。 三年後の明治29(1896)年、慶應義塾に復学、31(1898) 年中退、福沢桃介の紹介で日本銀行に就職し、約1年間勤めた。 その後は桃 介の勧めで、桃介との共同事業に尽力した。

 小島直記著『桃介・独立のすすめ』に、松永が諭吉に将来のことを相談した ら、独立した実業家がいい、まずはうどん屋、つぎは風呂屋の三助、さらには 焼芋屋をすすめられたという話が出てくる。 それを松永が桃介に話すと、葭 町の料亭に招待してくれた。座敷に貞奴が出て来て、桃介のそばににじりよる、 その様子から松永は二人が特別の仲なのをさとった。

 この頃、福沢諭吉は『時事新報』で「水と電気」について論じ、「日本は天然 資源が少ないというが、気をつけてみればあるではないか。山高く、水多く、 水力電気を起すには、世界無類の国だ。なぜこれに手をつけないか」と書いた と、小説は続く。 『福澤諭吉事典』の「『時事新報』社説・漫言一覧」を探す と、明治25(1892)年 4月12日「水力と電気」、紙面の記名〔クレー、マッコ ーレー演説〕かと思われるが、残念ながら『福澤諭吉全集』には収録されてい ない。

 葭町の料亭で、桃介が松永を誘ったのは、出願中の利根川水力発電の仕事だ った。 上州前橋のあたりの村々で有力者を訪問、夜は宴会、自分は病み上が りで酒が飲めぬから、松永も一緒に来て、とりもってもらいたいというのだっ た。 秘書役、宴会係り。 桃介が「常盤屋」という料亭の女将で、もと葭町 の芸者だった女に思いをかけ、松永に話をつけてくれないかと頼むエピソード も出てくる。 松永は、福沢家の背景で事業をしているのだから、離縁になっ たら元も子もなくなると、正直に女将に話して、ことをおさめた。 この利根 川水力電気会社の構想は、莫大な資金が必要だったが、三井銀行の中上川彦次 郎がさっぱり関心を示さず、画餅に帰した。 しかし、後年の木曽川の電源開 発につながって行くのである。 桃介は、松永を「先輩の山本達雄さんが総裁 となって、坂田実さんが塾の幼稚舎舎監をやめ、理事にしてもらった」と、日 本銀行に紹介する。

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