51年前、慶大新聞に書いたコラム ― 2012/04/10 03:22
入学式の読売新聞・滝鼻卓雄さんの塾員代表祝辞で思い出したことがある。 高校新聞の仲間で(彼は日吉の高校)、大学では慶應義塾大学新聞にいて、読売 新聞に入った小谷直道君のことだ。 滝鼻さんの一年下で、慶大新聞からずっ と一緒だったことになる。 社会部からシドニー特派員、福祉・医療・年金な どの社会保障担当の論説委員などを務め、よみうりランドの社長をしていた 2006年に、惜しくも急逝した。
小谷君とは大学1年の終りに、新入生を迎えるオリエンテーション実行委員 会で一緒に仕事をした。 彼は慶大新聞から来て広報を、私は文連から出て財 務を担当した。 その縁もあり2年生の時、大学では新聞に関係していなかっ た私に、小谷君は慶大新聞の“ピロティ”というコラムの執筆を頼んでくれた。 500円の原稿料が出た。 私が初めて原稿料をもらって書いた文章で、お金を もらって書くことの苦しさを味わい、とてもこんなことは続けられないと思っ た。 以後、書くことは、趣味と遊びにした。
どんなことを書いていたか、すっかり忘れていた。 茶色くなった慶大新聞 を引っ張り出したら、昭和36(1961)年4月15日の第300号から(毎月5・ 15・25日発行)11月25日の第318号まで6回書いていた。 実に半世紀が 経過した。 最初の第300号は「桜の苗木」、何と今、住んでいる近くの桜並 木の話だった。 髪のふさふさした顔写真がついている。 われわれが卒業し た年、昭和39(1964)年の東京オリンピックに向けて、東京改造の大工事が 始まっていた。
「木に咲く花はいいものである。それもお花見などとあらたまって出かけて 見るより、思いがけなく出っくわして見るほうがいい。そんなことからか、田 園調布と野毛の間の桜並木は桜のトンネルとして運転手さんたちに親しまれて きた。千何百メートルかにわたって空が桃色に塗りかえられたこの道を車がゆ っくりと走って行くのは、いかにも春らしいのどかな風景であった。
その桜も来年からは見られなくなるという。この道路が環状八号線の予定路 にあたり道幅が二十五メートルに広げられるため、切り倒されることになった からである。何とも残念なことというほかない。
話はやや古くなるが、わが家の横を走っている第二京浜国道でもまったく同 じようなことがあった。緑の葉をつけて車の洪水にささやかな抵抗を試みてき た並木が、引き倒され、グリーンベルトも削り取られてしまった。あとは排気 ガスと絶え間のない車の列が殺伐とした国道を埋めているだけになった。
交通マヒの対策に、木を切り、グリーンベルトを削るような味気ないことを やらなければならなくなったのなら、もう東京はダメだと飛躍した判断を下し ても、大きな誤りにはならないだろう。東京のこの状態は、その場しのぎの細 かいことをやっているより、思いきった対策を講じなければならないことを示 している。
磯村英一氏は富士のすそ野にニュー東京を作ることを提唱しているが、桜の 苗木が何十年か後には立派な花をつける堂々とした大木になるように、今この ような事業を決行することは、何十年後かの日本に大きなプラスをもたらすで あろう。理想的と一笑にけされがちなニュー東京プランにもろ手をあげて賛成 する。」
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