ウォーターゲート事件2012/04/16 04:57

 1972年6月、当時のアメリカ大統領ニクソンの再選委員会の運動員が、ワシ ントンのウォーターゲート・ビルの民主党全国委員会本部事務所に盗聴器を設 置しようとしたことが発覚。 これに端を発し、1974年8月にはニクソンが自 らも隠蔽工作に関与していたことを認め、辞任を余儀なくされるまでに発展し た、米国史上有数の政治スキャンダルが、ウォーターゲート事件である。

 1972年6月17日、ウォーターゲート・ビルへの不法侵入の罪で、5人の男 が逮捕された。 その一人マッコードの手帳の中に、以前ニクソン大統領再選 委員会で働いていたエドワード・ハワード・ハントの、ホワイトハウス内の連 絡先電話番号が見つかった。 マッコードは、CIAの元局員で、ニクソン再選 委員会の警備主任であった。

 『ワシントンポスト』の記者ボブ・ウッドワードは、同僚カール・バーンス タインと共に独自の調査を始め、事件に関するさまざまな事実を紙面に発表し た。 当初は不可能と考えられていた、不法侵入事件とホワイトハウスの関連 を示すために、根気強い報道を続けたのである。 内部情報提供者は、ウッド ワード記者によって「ディープ・スロート」と名付けられていた。

 7月23日、ニクソン大統領とハルデマン大統領首席補佐官は、FBIの犯罪調 査を遅らせるようCIAに依頼する件を議論し、この様子はテープ録音されてい た。 ジョージ・ゴードン・リディとエドワード・ハワード・ハントを中心と したニクソン再選委員会職員が、一連の不正工作を主導していた。 彼らは、 別名「鉛管工」と呼ばれる特別調査ユニットで、情報漏洩の調査や、民主党員 や反戦活動家に対する活動を多数行っていたとされる。 その中には、昨日見 た「ペンタゴン・ペーパーズ」を漏洩したダニエル・エルズバーグ博士が通っ ていた精神科医のオフィスに不法侵入したことがあった。 後に、この侵入行 為が明らかになり、エルズバーグ訴追は「政府の不正行為」として却下された。

 10月、CBSテレビの看板番組「イブニング・ニューズ」で、伝説的なアン カーマン、ウォルター・クロンカイトが、事件の概要を丁寧に追いかけ、問題 点をえぐり出した。 その14分の放送は3、4か月間の『ワシントンポスト』 の報道の断片をつなぎ合わせ、全体像を紹介する内容だったが、ニクソン政権 に決定的な打撃を与えた。 この報道で独走していた『ワシントンポスト』は、 後続の報道がないため孤立していたが、視聴者の絶大な信頼を得ていたクロン カイトの番組が取り上げたことで、事件は初めて全国民の注目を集め、他のメ ディアも無視できない大きなニュースになった。 

 1973年1月8日に、リディとハントを加えた侵入犯は、裁判にかけられる ことになり、マッコードとリディ以外の全員が有罪を認める。 裁判では被告 全員に対し、犯罪の共同謀議、家宅侵入および盗聴について有罪判決が出る。  さらに、被告が証言をせず有罪を認めるように、賄賂が支払われた事実もまた 明るみに出てしまう。

 4月30日、ニクソンは彼がもっとも信頼していたハルデマンとアーリックマ ン両補佐官の辞職を余儀なくされた。 ホワイトハウスの法律顧問ジョン・デ ィーンも、不利な証人になる恐れを警戒して解雇した。

 上院ウォーターゲート特別委員会の公聴会は、夏の間ずっと中継され、ニク ソン大統領への致命的な打撃となった。 前年7月23日の録音テープの存在 が明らかになり、コックス特別検察官と上院特別委員会はホワイトハウスに対 し、テープの提出を命じた。 ニクソンは大統領権限で、これを拒絶し、コッ クスの解任を画策するが、リチャードソン司法長官、ラッケルズハウス副司法 長官は、相次いで解任を拒否し、辞任した。 『ワシントンポスト』は、1973 年のピュリツァー賞を受賞した。

 下院での弾劾が可決され、上院でも弾劾の決議が決定的になった1974年8 月8日、ニクソン大統領は国民へのテレビ演説で翌日正午に辞職することを発 表した。 大統領に昇格したジェラルド・フォード副大統領は、ニクソンに対 する無条件の大統領特別恩赦を発表し、ニクソンは以後一切の捜査や裁判を免 れたが、恩赦を受けることは有罪を認めることを意味していた。 補佐官のう ち、ハルデマン、アーリックマン、ミッチェルは刑務所に入った。

(事件の経過は、主にウィキペディアによった。)