『松蔭日記』が描く綱吉と吉保の時代 ― 2012/11/08 06:10
秋山駿さんは、元禄という時代の文化(泰平)の爛熟と、平成20年今日の われわれの文化(平和)の爛熟とを、対比するために必要なキーワードは「女 の世界」「社交界」「上流社会」の三つだろうという。 そして、元禄時代の「上 流社会」とは、どんな感じのものかは、柳澤吉保の側室、正親町町子の『松蔭 日記』(岩波文庫)が実に活き活きと描いていると、校注の上野洋三による内容 要約や原文を引用している。
『松蔭日記』については、8月24日のこの日記「絶入(せつじゅ)と六義園 (むくさえん)」に書いた。 筒井康隆さんの朝日新聞連載『聖痕』で六義園の ルビが「むくさえん」だったのを疑問に思い、知り合いの国語の先生に正親町 町子と『松蔭日記』のことを教えてもらったのだった。 「五代将軍徳川綱吉 の正室は、京都から来たお公家さんの鷹司信子で、正親町町子も信子に付いて きたらしい」と書いたけれど、秋山駿さんを読むと、前に見たように当時「京 都貴紳の姫君は陸続として江戸に下り、武家の家庭に入って御台所となり奥方 となり側室となった」状況だったという。
秋山さんは書く。 『松蔭日記』は、吉保の「栄華」の日々を、家庭内から、 女性の眼でしっかり見ている。 時代の中心にいたのは、綱吉と吉保の二人で ある。 時代を動かすような大きな出来事は、この二人が創作する。 それで、 時には、吉保の政治的業績、上野寛永寺に根本中堂を新築したときの盛大な式 典の模様なども描かれているが、ほとんどが、贈答、招待、来客、挨拶といっ た、女性(家庭)を中心とした「社交生活」の記録である。
「社交生活」では、男には、講義できるほどの「儒学」、議論できるほどの「禅」 の教養が必要であり、さらにもっと手頃なところでは、「能」と「和歌」の心得 が必要であった。 女の場合は特に、「和歌」に堪能なことが美質だった。
『松蔭日記』。 3月14日に刃傷事件があった元禄14年の11月26日、将 軍が来邸。 この日は特に、柳澤家に対して松平の姓と、綱吉公の「吉」の字 を賜る。 筆者(正親町町子)の子、四男経隆君、五男時睦君までも松平姓を 与えられた。 贈答の品々のおびただしさは常以上で、当家の献上品を調製す る係の者は、十日も二十日も以前からこの準備に忙殺された。 五の丸様(将 軍側室)を始め祝賀の和歌を送り来るものも数多く、吉保様は一々返歌を差上 げた。
元禄15年3月9日、将軍の生母桂昌院様は、ついに従一位に叙された。 こ れも将軍の希望を吉保様が引受けて宮廷方に奏上運動した結果である。 その 功として二万石が加増され十一万二千三十石となった。
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