円仁と、宝誌の日本終末を説く『野馬台詩』 ― 2025/03/16 07:32
たまたま、『図書』3月号に、小峯和明さん(日本古典文学)の「円仁の見た宝誌像 山東の醴泉寺(れいせんじ)を訪ねて」という一文があった。 円仁は、840(承和7)年山東半島から五台山へ向かう途次に醴泉寺に立ち寄り、誌公和上の像を礼拝した。 「誌公」とは、六朝時代の名高い神異僧の宝誌(ほうし、418~514)のこと。 梁の武帝に仕え、金陵(今の南京)を拠点に予言者や観音の化身として早くから伝説化されていた(『梁高僧伝』ほか)。 日本の終末を説く予言詩『野馬台詩(やまたいし)』も書いたとされ(天皇百代で日本は終わるとの「百王思想」の典拠)、顔の中から顔が出てくる観音化身の木像でもよく知られている(京都の西往寺蔵、京都国立博物館寄託)。 遣唐使の吉備真備(きびのまきび)の活躍を描く『吉備大臣入唐絵巻(きびのおとどにっとうえまき)』にも、真備が中国の王から課せられた難題で『野馬台詩』を長谷観音の霊験で解読する話があり、宝誌が『野馬台詩』を深夜の宮殿で書いている画面だけ残っていたことが知られている。
『野馬台詩』というのを、初めて知ったが、興味深い。 「ウィキベディア」には、「日本の平安時代から室町時代に掛けて流行した予言詩。中国・梁の予言者、宝誌和尚の作とされるが、偽書の可能性が高い。日本で作られたとされるが、中国で作られたとする説もある。」とある。 平安時代後期から、終末論の一種として、天皇は百代で終わるという「百王説」が流布するようになった。 南北朝時代には天皇が百代に達した(現在の皇統譜では、後小松天皇で百代。しかし、当時は北朝を正統としており、他にも即位を認められていなかった天皇もいるため、数え方によっては数代前後する)。 吉備真備の件は、『野馬台詩』はもともと文がバラバラに(暗号形式)書かれ、まともに読めないになっていたのを、日本の神仏に祈ると、蜘蛛が落ちて来て、蜘蛛の這った後を追うと、無事に読むことができたという。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。