徳川綱吉と学問、元禄文化の全盛へ2012/11/10 06:35

 秋山駿さんは、元禄という時代、元禄文化の凄さは、浪人を「謀叛」に起つ 原動力ではなく、「文化」創造の原動力としたことにある。 忠臣蔵のドラマも、 その一つだ、と考える。

 関ヶ原以降、武士の失業者としての浪人が、大量に出現した。 浪人の中に は、時勢の変遷に、見切りを付け、武士以外の職業、商人や百姓となったり、 医者・易者・手習い師匠、あるいは武具の細工人、武芸の指南者になった者も ある。 学問もまた浪人者の職業の一となった。 文教興隆の当時であったか ら、これも必然の勢いで、漢詩人石川丈山などは、その代表である。

 徳川十五人の将軍のうち、綱吉ほど「学問」した者は誰一人としていない、 とは諸書の認めるところだそうだ。 綱吉は、側用人として柳澤吉保の先輩で ある牧野成貞邸へ三十二回、柳澤邸へ五十八回という異常な頻度の御成り(こ れは「奇矯」だと、秋山さん)をした。 何をしに往くのかといえば、能を舞 い、「経書の講義」をするために往く。 むろん、講義は城中でもやった。 能 と学問に熱中する独裁君主と指導層の治める時代とは、どんな空気でありどん な光景だったのか。 そこに「奇矯さ」が加わるから、元禄文化の全盛が生じ た、と秋山さんは言う。    綱吉も、武士一般と同じく、この時代を生きる上での「思想」を必要とした。 ただし、綱吉は将軍であり、独裁君主なのだから、思想ではなく、政治的な「経 綸」ということになる。 経綸だから、すぐさま実行になる。 綱吉の経綸は、 直情径行的で、かつ、強行だった。 軍艦安宅(あたけ)丸を廃却、将軍とな ってからは「日光社参」をしなかった。 寺社造営にしごく熱心なのに、明暦 の大火で焼失した江戸城天守閣の再建には見向きもしなかった(もっとも大火 の二年後、家綱の老中らが天守閣の廃止を議決していたが…)。 学問どころ「湯 島聖堂」を建設し、そこへの御成りを年々続けた。

 秋山さんは、主君の刃傷、切腹、屋敷立ち退き、赤穂藩断絶に至る事態に際 し、家中の武士たちの、整然とした行動、能力に、しきりに感心し、とくに事 件の第一報を赤穂へ伝えた内証用人兼児小姓頭の片岡源五衛門の文章を特筆し ている。 事実を捉えて簡潔、私情に走らず客観的。 非常な一大事に直面し ながらのこの行為、当時の武士の器量と能力、その心構えを見事なものだ、と 言う。