〔漬物文化〕〔灰の文化〕「大豆」の力2012/11/25 05:54

 小泉武夫さんの語る東北の食文化のいろいろである。  〔漬物文化〕…農作業に塩分が必要になる。 弁当に漬物の重箱があり、ま たたび・くるみ・柿・人参・ゴボウ・かぶ・沢庵と種類が多い。 「いぶりが っこ」は東北独特、いぶすのは高度なテクニック、囲炉裏の自在鉤に刺せるよ うになっている、「がっこ」は合香、お香香が合わさっている、歯応えがいい。 ヨーロッパにも、焦がして食べる文化がある。 コーヒー豆や、ウィスキーの大麦をいぶしたスモーキー・フレーバーも、そう。

〔灰の文化〕…東北は、灰の食文化がすごい。 灰は、けして捨てない。 カ リ肥料がなかったから、関東から東北にかけて、灰買人が「灰はござらんか」 と買いに来た。 切られの与三郎も、お富の妾宅で「このうちの洗えざれえ、 かまの下の灰までも俺のものだ」と、ゆする。 種イモを四つに切り、灰をま ぶして保存する。 カリウムが水と結合して水酸化カリウムになりアルカリ性、 土壌微生物・腐敗菌がつかない。 狩りしたウサギを灰で貯蔵した、穴を掘り 生の葉と乾燥した葉を半々、皮を剥いたウサギを入れ、火でいぶし、灰をまぶ す。 灰の中に餅を入れておく「灰餅(へいもち)」というものがある。 以前 『灰の文化誌』(リブロポート)という全部灰の話の本を出した。

〔大豆発酵食品の多様性〕…「大豆」は大切なたんぱく質だ。 大豆を和牛 と同じ水分にして測ると、たんぱく質は和牛17~18%大豆16~17%になる。  東北にはスタミナ食として江戸時代、「豆腐を具にした納豆汁」があった。 驚 くべき発想だ、大豆=肉だから、肉汁に肉を入れ、さらに肉を加えることにな る。 現代人は、朝晩一杯ずつこれを飲めば、あっという間に元気になる。 コ レステロール、中性脂肪なし。 東北の納豆は全部ひき割りだが、味噌汁に溶 けやすいからだ。 凍み豆腐がすごい。 一番栄養がある。 たんぱく質60%、 牛肉の3倍ある。

これぞ逸品を紹介しよう。 実家の醸造業に越後から杜氏が来て、酒を仕込 み、同時に味噌も仕込んで故郷に帰る。 毎年日高昆布をカマスに入れて60 ~70本送ってくれる人がいて、その幅20センチ長さ60~70センチの昆布を 父親が味噌樽につきさしておく。 杜氏がまた来る前に引き上げる。 べっ甲 色の、昆布の味噌漬けが出来る、これが美味しい。 それを聞いて早速、我が家でも、味噌の中に昆布を差し込んだのだった。

「地下鉄の父」早川徳次<等々力短信 第1041号 2012.11.25.>2012/11/25 05:56

 地下鉄の銀座駅、日比谷線のホームの上、中二階のコンコースの中央部に、 胸像があるのを、ご覧になったことがあるだろうか。 沢山の人が通るけれど、 誰も見ようとしない。 「地下鉄の父」早川徳次(のりつぐ)である。 朝倉 文夫の作、台座に右から書かれた「社長早川徳次像」の書体(篆書?)も、朝 倉の筆だそうだ。

 早川徳次は、明治14(1881)年山梨県御代咲村(後の一宮町、現・笛吹市) の村長の子に生れ、早稲田大学に入り、政治家を志して、在学中に後藤新平の 書生となった。 卒業後は後藤が総裁を務める南満州鉄道(満鉄)に入社、後 藤が逓信大臣と鉄道院総裁に就任すると、鉄道院に移って鉄道の現場仕事を体 験する。 そこで郷里の先輩、東武鉄道二代目社長の根津嘉一郎に見出され、 佐野鉄道(現在の東武佐野線)や高野登山鉄道(現在の南海高野線)の立て直 しに成功する。 だが複雑な社内事情もあって退社、母校早稲田の大隈重信に 志を伝え、鉄道院の嘱託として大正3(1914)年「鉄道と港湾」研究に欧米へ 渡る。 ロンドンで連日地下鉄に乗り、ゆとりのある乗車状況に衝撃を受け、 東京市電の地獄の超満員を解消するには地下鉄しかない、と思い定める。

 初めは公共交通として、鉄道省や自治体に働きかけたが、早川の先見性はま ったく理解されなかった。 交通量、地質、湧水などの調査を行い、事業とし て十分成り立つことなどを説得材料に、賛同者を募り、ついに独力で、大正8 (1919)年鉄道院から地下鉄営業免許を取得、翌年東京地下鉄道株式会社を設 立した。 大正14(1925)年9月に建設工事を開始、昭和2(1927)年12月 30日上野-浅草間を開業させた。 安全第一に、全鋼・難燃性車両の導入、警 戒色のオレンジ色車体、打子式ATSを採用、将来の輸送量増加に備え6両編成 での運転に対応した設備を整え、社員教育の充実にも意を用いるなど、高い先 見性を示した。 デパートの下に駅をつくり建設資金を出してもらう等、営業・ 経理面でも手腕を発揮、昭和9(1934)年6月には新橋まで延伸する。

 昭和14(1939)年1月東急の総帥五島慶太率いる東京高速鉄道が渋谷-新橋 間を全通させる。 五島の株買い占めを受け、両社は9月渋谷-浅草間の相互乗 り入れを始める。 翌15年、経営権や駅の設計(五島は3両)で両社の争いが 激化、地下鉄の国営化を目論む鉄道省(佐藤栄作鉄道課長)は和解の条件に早 川・五島の退陣を示し、両社の事業は半官半民の帝都高速度交通営団(営団地 下鉄)に譲渡された。 早川は地下鉄事業を取り上げられる形で実業界を去る。  株主・重役・社員一同は早川の胸像を建てた。

 「やがて東京の地下には、クモの巣のように地下鉄が走る時代が必ず来る」 と家族に語っていたという早川徳次は、二年後の昭和17年満61歳で世を去っ た。