采女達のその後、幸せと不幸せ ― 2013/04/18 06:50
「水の女」とは、そういう女性達だとわかった。 平安時代になって采女と いう制度がなくなり、采女は解放されて国へ帰ってもよいということになる。 だが、すんなり故郷に帰れる幸せな采女もいれば、国許の事情が変って、帰れ ない采女もいた。 幸せに帰れた例に、大きな所では大分県の宇佐神宮、本殿 は上宇佐の八幡様で、その八幡様を祀っていた巫女が第二殿だ。 それを姫神 というが、元は巫女である。 八幡神を祀っていた巫女様が、今度は神様のよ うに祀られて、第二殿になる。 地方の神社をお参りすると、本殿の他に別殿 という小振りのものがあったり、あるいは別殿とまでいかなくても小さな祠が あったりする。 その立札を読むと、大概、玉依媛(たまよりひめ)あるいは 玉日姫(媛)とある。 それは本殿の神様を祀っていた巫女の後(のち)の姿 で、巫女が一応神様のように扱われていることがよく判る。 玉依媛、玉日姫 でなく、水泳の「泳」の字を書いて「泳媛(媛)(くくりひめ)」という場合も ある。 それは「水の女」、水の中に入って神様の禊を援け「天の羽衣」(褌) のお取替えをした巫女を祀っているわけだ。 その後「くくり」の字が判らな くなって、「掬理姫(きくりひめ)」や「菊理姫」と書いた祠が、全国どこにも ある。
帰るに帰れなかった巫女達、采女達は、どうしたか。 都の京都に残ったの が、桂川の河川敷に集まった桂女(かつらめ)と呼ばれる者達だ。 宮廷から 俸給はもらえないが、何かあると宮廷に「押しかけ祝福」をして、幾許かのも のを与えられ、生き延びた。 それから「遊行女婦(ゆぎょうじょふ)」という 人達がいた。 宮廷にいた間に見聞きし知った、和泉式部だとか小野小町だと か、高級な女官達の噂を、地方に持って回って、語り聞かせ、なにがしかの食 べ物を貰って暮らしていた。 「遊行女婦」、ふつうには「うかれめ」というが、 決して普通考えられているような売春婦ではなく、神様や貴い人達の話を持ち 歩いた、采女の成れの果てなのだ。
なぜ和泉式部かというと、宮廷に仕えていた時、地方へ転勤する男、地方官 を掴まえて、和泉の国に行っているので、采女が身近に感じたのだろう。 全 国にたくさんの和泉式部や小野小町の墓がある。 肝心の京都には少ない。 柳 田国男は、その話を持って歩いた遊行女婦の成れの果ての墓と考えている。
小野小町の出た小野氏は、各地の名産の漆器に関わりのある家で、どうも「旅」 に関係があって、一番有名なのが「小野のお通(つう)」という通り名で、神様 に巡り会うために全国を歩く。 「お通」は「とおる」ということで、吉川英 治はこの民俗学の知識を『宮本武蔵』に遣った。 池田弥三郎は、小野小町の 「小町」という名前は、「待つ」ということで、「神様を待つ」ということが、 「まち(町・待)」である。 大体は、一区画の「町」の中に神様を待つ人がい るから、その区画は「まち」であった。 それが全部普及して、一般の都市の 何々町というような普通の名前の町が出来上がった、と話していた。 以上は、 綛野和子さんの『日本文化の源流をたずねて』で学んだ、まだまだ面白いこと があるのだが、一旦は終えておく。
(「采女」「美人」「小野小町」については、当日記の2010. 11.20.-21.で、井 上章一さんの「大化改新以後、帝(みかど)の身の回りの世話をする女官にす るため、日本全国の地方豪族の娘の中から、選りすぐりの美人を都に献上させ た」という話を紹介したことがあった。)
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