大先輩・和田實さん、「慶應義塾と戦争」 ― 2013/10/01 06:36
9月14日の福澤諭吉協会土曜セミナーの終わった後で、もう一つ。 講演を 同じテーブルで聴いた和田實さんのお話を聞く機会があった。 大先輩の和田 さんとは、協会の旅行でご一緒したことがあり、中津に縁のある方と知っては いたが、それが福沢英之助(旧名和田慎二郎(慎次郎))の和田家だということ を初めて知った。 和田慎二郎は中津藩士で、文久2(1863)年初夏、兄克太 郎とともに慶應義塾に入り、慶應2(1866)年、幕府が幕臣の子弟を選抜して イギリスに留学させた際に、当時幕臣になっていた福沢が自分の弟、福沢英之 助ということにして参加させた。 幕府瓦解後に帰国した後も旧名に復さず、 岡山と東京で教員をし、著作活動や実業にも従事した。 和田實さんは、その 福沢英之助のご兄弟の子孫にあたるのだそうだ。
和田實さんは、商社勤務の後、日本語教師としてロシア等にも行かれた。 先 日三田であった学徒出陣や戦没者を思う会に出席されたという。 昭和22年 の卒業というから、大正ですかとお聞きすると、やはり大正のお生れだそうだ が、とてもお元気で明晰だ。 同級生の多くが学徒出陣をした。 最近、シリ アの問題などで、戦争が始まりそうなキナ臭さを感じるが、戦争には反対です、 ときっぱりおっしゃる。
NHKテレビのニュースでもやっていたが、慶應義塾福澤研究センターは8 月から「慶應義塾と戦争」アーカイブ・プロジェクトを始めている。 先の大 戦では、慶應義塾関係者から2,200人を超す戦没者が出、慶應義塾は全国最大 規模の空襲被害をこうむった大学でもあった。 その趣意書には、「この時代の 慶應義塾を見つめることは、単に一大学の歴史を回顧するというに留まらず、 日本で最も古い歴史を誇る私立大学としての慶應義塾を通して、日本が戦争と どのように向き合ったかを問い直す、重要な試みとなります。しかし慶應義塾 においては、この昭和の戦争の時代が必ずしも十分議論されてきたとはいえま せん。」として、「多様な議論が、事実に即して健全に、活発になされていくた めには、慶應義塾においても、十分に基礎資料を収集、検討しておく必要があ ると考えます。」とある。 終戦時に20歳だった方が90歳を迎えつつある今 を逃せば、永久にその機会は失われるとの危機感から、このプロジェクトは発 足した。 オリジナル資料の収集、基礎的データの整備、当事者の聞き取りや 回想記の収集、それらの積極的公開などを行う。
昭和20年12月小泉信三塾長の「塾生諸君に告ぐ」 ― 2013/10/02 06:29
和田實さんは復員をして、三田の「幻の門」の坂道の掲示板で、小泉信三塾 長の「戦うべからざるを戦った」という掲示を見たそうだ。 家に帰って、今 村武雄著『小泉信三伝』(小泉信三先生伝記編纂会)を見ると、昭和20年5月 25日の空襲で大火傷を負い慶應病院に入院していた小泉信三塾長(11月一杯 の任期を、慶應義塾が敗戦のごたごたで一年延長した)は、12月退院と同時に 「塾生諸君に告ぐ」を掲示した。
「顧みれば私の入院の時と退院の今と、六個月を隔てて世は一変しました。 当時吾々国民は、日々死を目前にして苦しき戦いを続けていましたが、戦敗れ て今は平和国家建設の難路を喘ぎつつ歩んでいます。しかしこの間において日 本の学生諸君が、寸毫(すんごう)の遺憾なく国民の義務を尽くされたことに ついては、誰れ一人これを争うものはありません。学生の大なる部分は国家の 危急に応じて農工商の勤労に出勤し、他の大なる部分は直ちに武器を執って戦 場に立ちました。そうしてその中の少なからぬ人々は終(つい)に還らず、終 戦後の今日も復(ま)た相見ることの出来ない人々となりました。戦は敗れま したが、そうして今吾々は戦うべからざるに戦ったという悔恨に心を噛まれて おりますが、しかし国家のために身を捧げた人々の――殊に若い人々の――忠 誠はこれを忘れてはなりません。」
「民主主義の大道を拓くは、事、素より容易ではありません。しかし幸いな るかな、吾々慶應義塾同人のためには、八十年前福澤先生の高く掲げられたる 炬火(かがりび)の火が今なお炳(へい)として行く手を照らしています。(中 略)」
「学ぶといえば第一に智を研くことが考えられます。しかし、私は姑(しば) らく学ぶという意味をもっと広く解して、真と善と美のためにする一切の活動、 即ち学問、道徳、芸術上の一切の努力をそれに含ませたいと思います。そうし てこの一切の努力によって新しい日本は建設されるということを諸君に切言し たいのです。就中(なかんずく)大切なのは道徳的精神、道徳的意志の振作(し んさく)であって、これなくしては我々は現在の非境を脱出することは出来ま せん。(中略)戦い敗れたりと雖(いえど)も気品を失わず、常に信ずるところ を言い、言うところを必ず行う信義の国民であることを、事実によって世界に 示してこそ、始めて吾々は新しい出発をなし得るのだと私は信じます。民主主 義の根基は各人の自尊自重の念にあることを、諸君は寸時も忘れてはなりませ ん。」
「現在吾々は非常な苦境にあります。しかし諸君、艱難に挫けてはなりませ ん。詩人(佐藤春夫のこと)は嘗(かつ)て我が慶應義塾学生のために歌って いいました。
まなこを挙げて 仰ぐ青空
希望は高く 目路(めじ)は遥けし
慶應義塾の若き学生
まことに然り。諸君は常に目を挙げて大空を望み、常に希望を高く保たねば なりません。よしや新日本建設の路は遠くとも、諸君の健脚は必ずこれを踏破 することを信じます。(後略) 塾長 小泉信三」
米軍が撒いた福沢の伝単(宣伝ビラ) ― 2013/10/03 06:31
和田實さんのお話の中に、戦争の末期、アメリカ軍が空襲と同時に、全国各 地に空から撒いた「伝単」(宣伝ビラ)に「福沢諭吉」のものがあったことが出 て来た。 私は故西川俊作先生が、その「伝単」について『福澤手帖』87号(1995 (平成7)年12月)に書かれ、それは『福沢諭吉の横顔』(慶應義塾大学出版 会・1998年)に収録されていることを知っていた。
西川先生の、その「米軍伝単―自由主義のすすめ」から、少し紹介してみた い。 本土空襲もたけなわの昭和20年2月半ば、アメリカ軍は日本国民の心 理攪乱、戦意阻喪を目的とした謀略伝単(宣伝ビラ)を全国各地の上空から大 量に散布した。 ビラの内容はさまざまであったが、そのなかに福沢諭吉から 尾崎行雄まで、日本のリベラリズムの系譜をたどって自由主義を「すすめ」る 一枚があった。 14センチ×11センチ、ほぼ葉書と同じ大きさだ。 表側に は「日本の偉人よ何処に在りや」の見出しと、福沢諭吉の絵があり、「日本は自 由の何たるかを理解した人々に依って強大を致したのである。「国家の独立はそ の国民の独立より。」と喝破した福沢諭吉氏。その著書「思想と人格」に於て自 由の定義を下した深作宏文博士。多年議会政治の闘士として令名を馳せた尾崎 行雄氏。刺客に襲はれた時、「板垣死すとも自由は死せず。」と絶叫した板垣退 助氏。此の人達によって昔の日本には「自由の国家のみがその強大を致し得る。」 と云ふ事実がよく理解されていた。」
裏側は尾崎行雄の絵と、「昭和十一年に尾崎行雄氏が「世界の趨勢に逆行し軍 国主義の旧弊を固守し恰もそれが国に最も忠なる所以であるが如く考へること は決して国に忠でもなく又自らを愛する所以でもない。」と叫びえたのが恐らく 最後であらう。軍閥がの発言の自由を拘束し荒木の如き人間が日本を軍事的敗 北に導いたのである。現在の事態は日本を破滅に導いた軍部指導者達の採った 理論が誤謬であって尾崎氏の如き人々が正当であった事が立派に証明して居る。 言論の自由と自由主義政府とを再び確立することが日本の将来を保証し得る唯 一の道である。」
深作宏文(ふかさく・やすぶみ)博士については、西川先生も知らなかった と、調べてくわしく書いておられる。 倫理学担当の帝大教授、水戸学の権威、 主著に『国民道徳要義』(1900年)、『社会思想の倫理的考察』(1924年)があ り、『思想と人格』は1924年冨山房刊。 (「荒木」は、荒木貞夫陸軍大将、 皇道派の中心で、犬養・斉藤内閣の陸相。 敗戦後、A級戦犯として終身禁固刑 の判決を受けた。)
ほかにも、トルーマン大統領の肖像写真入りの「日本国民諸氏」という呼び かけで始まる大統領教書風の伝単、欲望・言論の自由、恐怖・圧制からの自由 を得るためには軍閥を倒せという伝単があり、福沢の写真入りで「天は人の上 に人を造らず人の下に人を造らず」が引用された上質の紙の天賦人権論伝単を 見た方もあったそうだ。
アジアの近代化と福沢、ベトナムの場合 ― 2013/10/04 06:38
宮地正人教授の「福澤の脱亜論」を聴いたあとの和田實さんのお話で、朝鮮 の開化派、独立運動派が福沢に影響を受けたように、中国の孫文などは福沢と 関係があったのだろうか、ほかのアジア諸国から慶應義塾への留学生はあった のだろうか、という疑問が出された。
私は福沢と孫文の関係について、聞いたことがなかった。 『福澤諭吉全集』 と『福澤諭吉書簡集』の索引を見ても、「孫文」は出てこない。 孫文が日本に 亡命したのは明治32(1899)年、宮崎滔天・内田良平らの支援を受け、東京 で中国革命同盟会を結成したのが明治38(1905)年である。 明治32年は、 福沢がその前年9月に脳溢血を発症した年で、年譜も空白になっている。 そ して明治34(1901)年2月3日に亡くなった。 孫文は、日露戦争後の明治 44(1911)年辛亥革命に成功し、翌年臨時大総統に就任したが、袁世凱にその 地位を奪われて、再び日本に亡命した。 福沢の著作や思想に影響を受けたか どうかは、わからない。
私が聞いたことのあったのは、ベトナムのケースである。 『福翁自伝』の ベトナム語訳をしたハノイ国家大学人文社会科学大学のファム・ティ・トゥ・ ザン(ジャン)さんの話を聴いたことがあった。 近代ベトナムで最も早い段 階に福沢諭吉の影響を受けたのは、20世紀初めに活躍した独立運動の指導者の ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)らである。 彼らは明治維新の成功 と日露戦争の勝利に強い刺激を受け、日本政府に武器の援助を求め、明治38 (1905)年に日本を訪れた。 しかし、彼らの希望は拒否され、武器の援助か ら遊学へと目的を変えることになった。 明治40(1907)年に200人の遊学 生が横浜や神戸や長崎などの港から上陸することによって、「東遊運動」が始ま った。
ファン・ボイ・チャウが日本に来たのは、福沢が亡くなってから4年後のこ とであった。 彼は祖国を一日も早く解放したいという熱い愛国心から、福沢 の「一身独立して一国独立す」という精神と「日本を富強にするが大本願」と いう信念に強く感激した。 日本語が分らず、主に中国の書物を通じて福沢諭 吉の思想に接したという(福沢諭吉を漢越語に直し、フック・チャック・ズー・ カットと読んだ)。 (馬場註…ということは、孫文の頃の中国でも福沢の思想 がよく知られていたことになる。そして朝鮮の開化派も、それを読んだであろ う。そのあたりを研究し、中国や韓国の人々に認識してもらえれば、福沢に貼 られた「脱亜入欧」「アジア蔑視」「侵略主義のイデオローグ」という誤ったレ ッテルをはがすことができるかもしれない。) ファン・ボイ・チャウは明治 39(1906)年刊の『海外血書』で、福沢諭吉を見習うべき革新者として言及し た。 翌明治40(1907)年にはファン・ボイ・チャウと同じ熱い志を持つ志 士たちが、福沢の慶應義塾をモデルにして「東京義塾」を設立した。
このあたり、詳しくはファム・ティ・トゥ・ザン(ジャン)さんの「『福翁自 伝』のベトナム語訳を手がけて」(『福澤手帖』128号2006年3月)、「ベトナ ムにおける福澤研究とその課題」(『福澤諭吉年鑑』38・2011年)を参照して下 さい。
三笑亭夢吉の「思い出」前半 ― 2013/10/05 06:28
アジアの近代化から突然、落語で恐縮だが、これが当日記特有のバランス感 覚とでも言おうか。 9月30日は第543回のTBS落語研究会だった。 543 を12で割ると、45年で余りが出る。 我ながら、よく通って、ご苦労な事だ。
「思い出」 三笑亭 夢吉
「あたま山」 立川 生志
「品川心中」 柳家 小満ん
仲入
「天狗裁き」 柳家 さん喬
「お初徳兵衛」 五街道 雲助
三笑亭夢吉2008年8月の「狸賽」を褒め、2010年5月には余り演じられな いから面白くないのが常識の損な噺「よいよい蕎麦」を演った。 今回も、損 な珍しい噺なのだが、結論を先に言えば、面白く聴いたから、進歩の跡がある ということだろう。
「思い出」なんて噺、わけがわからないだろう、と白の粗い縞の着物に、黒 の紋付の羽織で始める。 この噺を教えてくれた噺家が、浅草の古着屋で羽織 をみたら、物がよくて、一番安い、サイズもぴったり、新品同様のがあった。 喜んで買って、店を出ると、すれちがう人が、みな避ける。 浅草演芸ホール に着いたら、それを着て歩いて来たのか、と驚かれた。 山口組の紋だった。
汗まみれの古着屋の上総屋が古着を買いに来て、その家の奥さんに羽織を脱 げといわれ、畳もうとすると、そのままで結構です、と。 奥さんは、若い時 分のお召を出す。 薄色で、派手な柄が結構、手入れもいい。 見積もりは5 円50銭。 奥さんは8円位かと。 上総屋は、6円の品だが、2銭銅貨くらい のシミが50銭。 いろいろと思い出がある、結婚当時、亡くなった主人と、 これを着て歌舞伎座へ行った。 先代の歌右衛門に梅幸。 主人の知人が、「ヨ ーヨーヨー」と言って、主人の頭をポンと叩いた、「二号か、三号か、四号か」。 薄色だけど、派手な柄だったものでね。 何で、本妻と言ってくださらなかっ たんです。 それで今度の休みに、箱根へでも行こうということになった。 当 時だから国府津乗り換えで汽車で行って、旅館で出た天婦羅に醤油をかけた時 の、シミ、その思い出の品で。 新婚当初の思い出の品、6円で引き取りまし ょう。
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