「没後百年 日本写真の開拓者」『下岡蓮杖』展 ― 2014/04/23 06:35
アンブロタイプの写真も、文久2(1862)年、3(63)年、慶應4(68)年、 明治2(69)年、明治初年のものが展示されていた。 恵比寿ガーデンプレイ スの東京都写真美術館で、「没後百年 日本写真の開拓者」『下岡蓮杖』展を見て 来た。 福沢諭吉やW・K・バルトン(乾板の普及に貢献)の関係もあって、 幕末・明治の写真には関心があったので、横浜に写真館を開いていたという下 岡蓮杖の名は知っていた。 この展覧会で、下岡蓮杖が横浜のほかに、浦賀、 下田という幕末に際立つ土地に関係し、後には浅草に写真館を移し、大正3 (1914)年浅草で亡くなっていることがわかった。
展覧会が強調したのは、下岡蓮杖と絵画との関係である。 山口才一郎筆記 『写真事歴』(明治27年・写真新報社)によれば、蓮杖は桜田久之助といい、 浦賀船改番所の判問屋を務める父与総右衛門の三男として、文政6(1823)年 伊豆下田に生れた。 岡方村の土屋善助の養子となったが、13歳のとき画を学 ぼうと家を出、江戸で足袋屋の丁稚をしたという。 その後、天保14年に下 田砲台付足軽となり、その伝手で江戸の絵師狩野董川(とうせん)の弟子とな り、董円の号をもらう。 「董」は蓮根のことで、董川を尊敬して、蓮根の模 様のある杖を使っていたことから、「蓮杖」を名乗ったという。
絵師としての生活の中で、写真との運命的な出合いがあり、その精密さに衝 撃を受ける。 写真術習得のために外国人との接触に努め、安政6(1859)年 に横浜が開港すると、アメリカの貿易商ショイヤーと関わり、その妻アンナや、 アメリカのオランダ改革派教会の宣教師ブラウンの娘ジュリア(後にイギリス 領事館員ラウダーの夫人になる)に油彩画を学び、ショイヤーの所に滞在して いたアメリカ人写真師ジョン・ウィルソンから写真技術を習おうと試みる。 ブ ラウンとの関わりは、蓮杖の妻が病弱で、宣教師ヘボンの診療を受けたことか らによるようで、蓮杖は横浜海岸教会で洗礼を受けたという。 ウィルソンは なかなか写真術を教えなかったが、帰国時に、蓮杖が日本の名所の風景や職業 尽しのような風俗を描いたパノラマ油絵と、写真機材や薬品類と交換したよう だ。 ウィルソンは日本で撮った写真の販売や、蓮杖のパノラマをロンドンで 見世物にと計画したらしい。
苦心の末、写真術を獲得し、横浜に写真館を開き、隆盛を極めるが、作品が あるのは明治9(1876)年頃までで、妻の死を期に絵師へと戻る。 展覧会の 「写真師以降~第二期絵師時代~」には、富士その他の山水、達磨や七福神、 虎や馬や鶏など、一部は彩色もある墨絵が展示されている。
蓮杖の談話には、胡散臭さがつきまとうと言われていた。 初期の油彩画に ついても、よくわからなかったが、平成3(1991)年秋、靖国神社遊就館の収 蔵庫で二枚の巨大なパノラマ画が発見された。 函館戦争と、台湾出兵の図だ ったようだが、かなりの技量と迫真性のある作品で、絵画史の上でも下岡蓮杖 の再評価が必要だという意見もある(横浜開港資料館の斉藤多喜夫さん)。 展 示されている蓮杖92歳の筆とある、四曲半双の「琴棋書画図屏風」(神奈川県 立近代美術館蔵)などは、とてもきれいで精巧な作品だ。
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