ものに憧れると我慢が出来なくなる性分 ― 2016/03/28 06:24
実際の秋山徳蔵さん、テレビドラマ『天皇の料理番』と違う点がいくつかあ った。 生家は裕福な料理屋だった、生れは福井県の武生、その二男坊。 小 さい時から、ものにあこがれると我慢ができなくなる性分だった。 10歳のと き、学校友達が禅寺の小坊主になるのを見て、自分もなりたくて堪らず、無理 をいってお寺に入った。 一通り修業したが、何しろひどいいたずら坊主で、 和尚さんの一番嫌がることをやってみたくなった。 本堂の裏の崖っぷちに、 開祖以来代々のお上人様の墓が並んでいる。 らっきょうを逆さに立てたよう な形、見るからに揺すぶってみたくなる恰好だから、その誘惑にはどうしても うち勝てない。 初めは重くて少ししか動かないが、反動を利用してガダガタ やっているうちに、とうとう台座から外れて崖の下へ転がり落ちた。 下の竹 藪の、ど真ん中に落ちるので、カラカラと壮快無比な音を立てる。 いよいよ 面白くなって、次から次と落として喜んでいるうちに、とうとう十代あまりの お上人様を谷底に突き落としてしまった。 それで、寺をクビになった。
高等一年(今の小学五年)のとき、大阪の伯母がきて、大阪の話を聞かせて くれた。 さあ、行きたくて堪らない。 親達に頼んでみたが、頭から問題に されない。 とうとう、家出を決行した。 一度目は、武生の次の鯖波で捕ま ってしまった。 数日後、反対方向の鯖江という駅まで乗って、うまく撒いて しまって、無事に大阪へ行った。 米相場の話を聞き、それがやりたくて、米 屋になるつもりでいたが、一カ月ぐらいしたらおやじがやってきて、連れ戻さ れてしまった。
しばらくは、おとなしく学校へ通っていたが、だんだん家業の料理に興味を 覚えるようになってきた。 手伝いなんてしおらしいことはしないが、魚を引 っ張り出して、ぶった切ってみたりするのが面白くて、叱られても叱られても、 そういういたずらをしていた。 鯖江にあった三十六連隊の将校集会所の賄い を自分の家がやっていたので、奉公人に連れられて、ときどき連隊に行ってい た。 そこで西洋料理をやっていた兵隊さんに心酔するのは、ドラマと同じだ。
明治37年、16の年に、宿望がかなって、東京へ料理の修業に出ることがで きた。 最初は華族会館で3年間見習いをして、それから築地の精養軒に勤め た。 料理の修業は、激しいもので、矢庭にガンと頭をなぐられたり、脚をい やというほど蹴飛ばされたりする。 それでも「有難うございます」と言う。 教えてもらうというのではなく、先輩の持っているものを引っ張り出せという 行き方である。 これが辛かったかというと、ちっとも辛くなかった。 習い たい、覚えたい、上手になりたいという気持ばかりが先に立っていた。 金銭 や出世を目標にしていないので、そういう仕打ちに対しても、いっこう腹が立 たない。 まあ、いわば、人間が相手でなく、技術だけが相手だったのであっ た。 技術に対して、頭をさげていたわけだった。 初めは、明けても暮れて も鍋洗いであった。 真心をこめて洗わなければならない。 とにかく、鍋ば かり洗って、一月目に一円五十銭の給料をもらった。 それをもらうのが恥ず かしくて、恥ずかしくて逃げてまわった。 えらく叱られて、とうとうもらっ たが、二月目、三月目と、だんだん恥ずかしくなくなった。
大体ひと通りのことを覚えると、今度はフランスの料理をじかに勉強したい という野心が起ってきた。 まずフランス語を勉強しなければならない、とい うので築地明石町の個人教授の先生のところに通った。 夜9時に仕事が終わ って、日比谷から明石町まで行く。 料理の原書を持っていって、それを教わ る。 早番は朝5時に起きて調理用のストーヴに火を入れねばならない。 遅 番でも7時起床だ。 それで、夜の12時、1時になると、さすがに眠くなって くる。 一人猛烈に勉強する奴がいて、意地を張りあって、よく勉強した。
ほんとうに西洋料理を研究するのには、どうしても本場にゆかなければ、と 思い立った。 幸いおやじが金を出してくれたので、明治42年、20歳のとき、 シベリヤ経由でパリへ行った。
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