客は将軍・徳川家重公、その真実 ― 2024/09/24 06:57
文耕が、事態をうまく飲み込めないままに平伏しつづけていると、また声が聞こえてきた。 「どうして、家重や(大岡)忠光の話をしないのだ」 「はっ?」 「釆女ヶ原では、家重の下の用の近いことを、嗤いものにしていると聞いたぞ」 笑いを含んだ声が言い、文耕は平伏している頭をさらに下げた。 「面を上げい」 「上様!」と、遮るような声が発せられたが、「かまわぬ。面を上げい」 「はっ」 文耕は言われるままに顔を上げた。
これが本当に、噂に聞く、あの家重公なのだろうか……。 確かに多少喋り方に難はあるものの、聞き取れないというほどではない。 だが、高座の、向かって右下に控えている肩衣姿の武士より明らかに威厳がある。 しかも、いくらか歪みのある口元には間違いなく笑みが浮かんでいるように見える……。
家重が唐突に、『宝丙密秘登津(ほうへいみつがひとつ)』と言った。 「はっ?」 「そなたの本だ」 無礼を承知で訊き返した、「畏れながら、それが何か」 「読んだ」 文耕は驚いて声を出した。 「あのようなものにお眼を通されたと」 それに答えることなく、また家重が笑いながら続けた。 『近代公実厳秘録』 「私めの本でございます」 「知っておる。読んだ」 文耕は、あまりの驚きによって、どう応じたらよいかわからず、ほとんど声を失っていた。 将軍が、自分についての悪口雑言に近い話が記されている本を読んだという。 にもかかわらず、怒るどころか、笑ってさえいる。
「文耕とやら、そなたは吉宗公有徳院様を、いかにも崇(あが)めているような書き振りをしているが、実は、心からのものではないと見た。家重の代を貶(おとし)めるために、ことさら有徳院様の御代をありがたいものにしているに相違ない。そうではないか」 その通りだった。 文耕は、黙って、頭を下げた。 「家重を、文武ともに劣り、世を統べる力もない愚かな将軍と書くのはかまわない。それは、むしろ望むところだ」 「上様っ!」 高座の下の、肩衣の紋から大岡忠光とわかる武士の制止にもかかわらず、家重は続けた。 「やがて、そう、間もなく家治が次の将軍になる。この家重が愚鈍であればあるほど、家治の賢明さが際立つことになるだろう。さすが有徳院様の孫だと。そのためにも、家重の腑抜けぶりを遠慮せずに喧伝するがいい」
家重はあたかも文耕のような者に思うがまま話のできることが楽しいとでもいうように喋りつづけた。 大岡忠光にしかわからないはずの家重の言葉がどうして自分にも理解できるのか、文耕は不思議だった。 「驚いているな。家重の言葉がわかるのは、なにゆえかと」 文耕は黙って頷いた。 「この世に、ひとりしか聞き取れぬ、などという言葉を発する者が、いると思うか」 「幼い頃は言葉をうまく喉の外に押し出すことができなかった。忠光は、唇の動きだけでおよそのことはわかってくれていたが、西の丸に入る頃にはすでに言葉にする術がわかってきていた。しかし、あえて、他の者には言葉がうまく出せない、と思うがままにさせておいた。その方が万事、都合がよかったからだ」
そして、家重はそれまで浮かべていた笑みを消し、冷たい口調で続けた。 黙って見ていると、近くにいる者の誰が心の裡(うち)で家重を蔑(さげす)んでいるか、誰が家重を廃嫡して弟の宗武を次の将軍にと望んでいるか、すべてが見通せたからだ、と。
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