文耕、村抜けしてきた駕籠訴人二人を匿う2024/09/30 06:59

 「で、私への頼みというのは?」 文耕は、あらためて秩父屋に訊ねた。 しばらく大きな動きのなかった郡上の国元で、去年の暮、これまでにない大事件が起きた、と言う。 郡上では、藩が命ずる年貢の検見取りに、あくまで反対する百姓を立者(たてもの)、藩の命に従おうとする百姓を寝者(ねもの)と呼ぶようになっている。 町方町人の中にも立者百姓に心を寄せる町方立者がいて、その中で目立つ動きをした新町の宿屋太平治が、去年の十月、些細な事で捕らわれ牢に入れられてしまった。 これに怒った立者百姓が大挙して城下に押し寄せ、太平治の解き放ちを求めて藩側の足軽たちと一触即発の睨み合いになった。 このときはなんとか収まったが、十二月、その騒ぎの首謀者と目された西気良(にしけら)村の甚助が捕縛され、しかも半月後に、密かに斬首されてしまったのだ。

 ここに至り、立者百姓たちは危機感を募らせ、自分たちの訴えが、藩側の主張するように本当のお上の訴訟事として取り上げられない「願い流れ」になってしまったのか、その真偽を確かめるべく、二人を江戸に送ることにした。 一方、藩側の立者百姓への締めつけはますます厳しくなり、一月、寝者百姓を案内人として足軽たちが帳元である歩岐島村の四郎左衛門宅を襲撃、帳面と金を奪うという挙に出た。 帳元は、今の出納責任者、この争いが何年も続けられたのは、百姓一揆には珍しく逃走資金の管理が几帳面になされていたことが大きかった。 組織の全容と資金の流れがわかってしまう。 立者百姓たちは各村から集まり、盗みの案内をした寝者百姓を捕らえ、四郎左衛門方に押し込めた。

 藩庁は、屈強な足軽を大量に送り込んで寝者百姓を連れ出そうとしたが、数千人の立者百姓が集結、包囲していた。 藩側の武士や足軽たちが抜刀し、六尺棒を振り回すので、立者百姓たちは石を投げて応戦した。 事態がここまで進展してくると、単なる「騒動」から「一揆」になっていきそうな様相を帯びてきた。

 先に江戸に送り出した二人は役に立っておらず、できるだけ早く追訴すべきだと判断した立者百姓は、剣村の藤次郎ら七、八人をあらたに江戸に送った。 それとは別に、村預けとなっていた駕籠訴人の喜四郎と定次郎もまた、密かに村抜けをして、郡上を出た。

 江戸に着いた二人は、駕籠訴の際に世話になった秩父屋を訪れた。 しかし、二人が村抜けしたことが藩側に知れたら、ここはすぐ眼を付けられるだろう、と秩父屋は思った。 匿う場所に困って、伝吉に相談したら、師匠なら、義を見てせざるは勇なきなり、と助けてくださるのではないかと。 見込まれてしまったな、と文耕は、「生もの」で危いのは覚悟の上、困っている者を前にして知らぬふりもできまいと引き受けることにした。 匿い泊める場所として、釆女ヶ原の見世物小屋の夜番はどうか、伝吉は遠慮がちにいう。 文耕は、その二人に会ってからにしたい、と。

 その夜、伝吉に伴われ喜四郎と定次郎が来た。 定次郎は、色黒で頬骨の張った、いかにも百姓らしい面構えだったが、喜四郎は上方の商人のような細面で、いくらか年かさらしく、主に受け答えをした。 文耕は、村預けの身で、どうして重い罰が科せられる村抜けをしてきたか、二人はこの騒動の頭取、首謀者、指導者なのか、と訊ねた。 それは答えられない、二人でないと言えば、それ以外の誰かということになる、万一のことがあれば、頭取が重い責めを負わされる、そのために連判状も傘様にしている。

 文耕は、おまえたち立者百姓の敵は誰なのだ、たとえば、黒崎某とか、と訊ねた。 秩父屋の話では、黒崎佐一右衛門という用人格の人物の検地は陰湿で意地が悪く、その検地から騒動のすべてが始まった。 黒崎は、金森藩が年貢の取り立て方を変えるに際して召し抱えられた農政の専門家で、領内の村を巡検すると、密かに広げられた田畑の摘発が巧みで、百姓たちはその眼の鋭さに恐怖を覚えた。 百姓の手管をよく知っていて、どうやら出が百姓で士分に取り立てられたかららしかった。 文耕が、憎しみを抱いたのかと訊くと、憎むというより、卑(いや)しい方だと。 「それは土から離れてしまったからだな、土を相手に生きていれば、貧しくとも卑しい者にはなるまいと文耕が言うと、二人は「なぜ、そのようなことを」と驚く。 二年余り、阿波の園木家で百姓同然の日々を過ごした、そこには士分の時にはなかった、地に足をつけて生きることの確かさがあったと話した。 その話が心を開かせることになったのか、喜四郎は郡上の百姓の困難について語り始めた。

 駕籠訴から二年待ったが、訴えを取り上げてもらえる望みがなくなった、もし追訴がうまくいかなければ、もはや江戸に潜んで、箱訴しかないのではないか、と言う。 箱訴とは、八代将軍吉宗が設けた目安箱に上訴の書状を投函することだ。 二人は村抜けをして来たので、箱訴をするまで、訴えが取り上げられるまで、金森藩の手に落ちたくない、もとより駕籠訴のときから命は捨てているが、無駄に死にたくはない、と。 文耕は、「おまえたちが、もういいと思えるまで、私が匿うことにしよう」、なぜ助けてくれるのか訊かれ、ふっと笑って「ただの、酔狂」。

 「ただの、酔狂」ではなかった、文耕は、まだ落着していない争いの中心近くにいる者から直(じか)に話を聞いていることに、自分でも意外なほど強い興趣を覚えていた。 秩父屋によれば、喜四郎と定次郎を金森藩の手から守ることは、この争いの帰趨を決するほど重要な意味があるという。 二人を匿う危険を冒すことは、底の知れない沼に似たその争いの渦中に自ら飛び込んでいくということでもある。 文耕は、久しく覚えることのなかった血のたぎりのようなものが、躰の奥底から生じてきそうに思えてならなかった。

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