福沢先生誕生記念会の、福沢家代表挨拶2025/01/15 07:09

 第190回福沢先生誕生記念会の、福沢家代表挨拶は福沢達雄さんという方だった。 福沢諭吉は高祖父、次男捨次郎の曾孫、以前この会で挨拶したTBSのテレビドラマ『半沢直樹』のディレクター、福沢克雄の二つ下の弟で、伊藤公平塾長とは幼稚舎の同級生だ、と話した。 蹴球部(ラグビー部)の厳しい練習で、独立自尊を徹底的に教え込まれた。 旭硝子、AGCで10年以上、アメリカやアジアで海外勤務したが、自分と福沢諭吉の関係を知らない人から、しばしば福沢先生の話題が出て、その影響力に驚いた。 三田で思い出すのは、ラーメン二郎で、山田大将から、蹴球部なら、へこたれない、キツイことをやってきたのだから、社会を支えろ、花となるより咲かせる根となれ、と言われた。

福沢家代表挨拶、去年は福沢博之さんという方で、玄孫(やしゃご)で、福沢の子孫は合計602名、現在8代目世代までいる、と。 福沢の精神は、親からよりも慶應で自然に学んだ。 水球をやったが、下級生の時は、ひたすら与えられた練習をしたことが役立ち、先輩やコーチから長所を生かすこと、延ばすことを指導された。 それを自分なりに考えて、チームの力にしたのが、独立自尊の精神かと思うと話した。 福沢先生は偉丈夫だったそうだから、先生の子孫に、体育会が多いのだろう。

一昨2023年の福沢家代表挨拶は、福沢達雄さんの兄、福沢克雄さんで、同じラグビー選手(旧姓山越)、1986(昭和61)年1月15日上田昭夫監督の下、トヨタを破り日本一になった。 その挨拶を聞いて、私は、福澤克雄さんの、福澤「心訓」発言に驚く<小人閑居日記 2023.1.17.>を書いている。 福沢克雄さん、福沢先生の「孫の孫」、次男捨次郎さんの子、時次郎さんの娘和子さんの子、ご両親の離婚で福沢姓に戻ったそうだ。

会社をやっていた時は、10日が支払日だったので、1月10日の福沢先生誕生記念会に、なかなか行けなかったが、2002年に会社の清算を済ませて、閑居生活に入ってからは、毎年出席できるようになった。 記念講演については、いろいろ書いているが、福沢家代表挨拶については、あまり触れていない。 ずっと長男一太郎さんの孫、眼のご不自由な福沢範一郎さんが(46回休まずの由)がなさっていたが、2009年の第174回から次男捨次郎さんの孫、福澤信雄さんに代り、2010年の第175回も福沢信雄さんだったことが書いてあった。 信雄さんは、福澤諭吉協会の旅行で、ご一緒したことがあった。 捨次郎さん(と菊さん(林董の娘))の子、時次郎さんに、信雄さん、武さん、和子さんがあり、克雄さんと今年の達雄さんは和子さんの子ということになる。 福沢家代表挨拶、信雄さんの後は、武さんがなさっていた。

福沢武さんは、2007年の第172回で記念講演「私にとっての福澤諭吉」をなさっていたので、それは書いてあった。

      福澤武さんにとっての福澤諭吉<小人閑居日記 2007.1.11.>

 1月10日は福沢諭吉の誕生日、「第百七十二回福澤先生誕生記念会」で三田に行く。 記念講演は三菱地所会長で慶應義塾評議員会議長の福澤武さんの「私にとっての福澤諭吉」だった。 福澤武さんは、諭吉の次男捨次郎の孫、いつも(46回休まずの由)この会に福沢家代表でご出席の範一郎さんは長男一太郎の孫だそうだ。 武さん(1932(昭和7)年生れ)は、子供の頃、家で諭吉の教えとか、家訓といったことは、聞いたことがなかった、という。 父親が2歳半の時に、諭吉は亡くなっている。 捨次郎(1926(大正15)年歿)の妻である祖母菊も、そういう話はしなかった。 ただ一つ、結婚した時、捨次郎が大きな犬を飼っていて、その犬が恐かった、それを聞いた諭吉が捨次郎に家の中で犬を飼うのをやめさせた、という話を聞いただけだった。

 幼時の記憶としては、講談社の絵本に偉人の特集があり、諭吉が出ていた。 上野の山の戦争の最中も、経済書を講義し、学問を続けた話だったが、1938,9(昭和13,4)年のことで、まだそういう内容でも大丈夫だったわけだ。 ほかに偉い人の子供のエピソードを集めた本で、お稲荷さんの石ころの話(ご神体を取り替える)を読んだ。 1939(昭和14)年に幼稚舎に入り、清岡暎一(諭吉の三女しゆんの長男)舎長の合同(?)修身の授業で諭吉の話をいろいろ聞いたのだろうが、咸臨丸の航海で柱に身体をしばりつけて食事をしたというのを憶えているだけだ。 「福澤の大(おお)先生」という歌などで、近寄りがたい人というイメージを持つようになった。

 20歳ぐらいで『福翁自伝』を読み、福沢観が変った。 全篇、感激、感動し、豊かな人間性を感じた。 諭吉はごくその辺にいる若者と同じで、愉快な人間である所に、親しみを感じた。 酒豪で、酒を止めようとして、タバコまで喫むようになった話、ロシアで外科手術を見て貧血を起こした話など、弱点を飾らずにオープンに書いている。 自分は下戸なので、酒飲みは受け継いでいないが、幼稚舎でモルモットの解剖を見ていて、顔が寒くなって、下がって座っていたことを思い出し、その点は譲り受けているという大発見をした。

   円満なヒューマニスト、前向きで明るい人<小人閑居日記 2007.1.12.>

 福澤武さんの講演の続き。 案外、知られていないのは諭吉が英和対訳のジョーク集『開口笑話』(1892(明治25)年)を出していること。 埋もれていたのを20年ほど前、飯沢匡さんが現代語訳を加えて冨山房から出した(絶版)。 たとえば、こんな小噺がある。

ある人が息子を将来何にしたらいいか知りたいと思い、部屋に聖書とリンゴとお札(紙幣)を置いておいた。 もし聖書を読んでいたら牧師に、リンゴを食べていたら農家に、お札を手にしていたら銀行家にしようという考えだった。 帰ってみると、息子は聖書を尻に敷き、お札をポケットに入れ、リンゴをかじっていた。 その人は息子を政治家にした。

序文で福沢諭吉は「教育の目的は才能や道徳の発達を促すものであるが、その方法はいろいろあるだろう。中でも、変ったことを言って人の注意をよびさまし、笑いの中に無限の意味を持たせ、自然に人生や社会の姿を理解させるのなどは、教育法の早道だ。この本の笑話は、文は短いが、意味するところは長い。小噺をよく味わえば、人生の日常に益するところが少なくない」といい、ジョークの価値を認めている。 独立、学問、文明の価値を説いた福沢だが、ジョークの価値も認めていたのだ。

『福翁百話』は晩年、客との話をメモしてまとめたものだが、広範な問題を論じて、わかりやすい。 そこに現れた福沢の姿勢は、文明の進歩への確信で、きわめて明るいものだ。 飯沢匡さんは『開口笑話』の解説に「私が福沢諭吉に惹かれるのは、彼がどんなに毒舌をふるっても、明るくて陽性だからである」と書いている。 福澤武さんにとっての福沢諭吉は、円満なヒューマニスト、前向きで明るい人である。 そうした姿勢でないと社会の先導というようなことはできない。 創立150年を迎える慶應義塾も、そういう姿勢が求められているのではないか。