芥川也寸志と「中等部の歌」2011/06/30 06:45

 25日、珍しく東京文化会館の大ホールの音楽会へ出かけた。 上野浅草フィ ルハーモニー管弦楽団の第50回記念演奏会である。 前にも書いたことがあ るが、高校の同級生の赤松晋君がチェロを弾く。 60歳から始めて、「上野」 の名の通り、芸大出身者も多いと聞く若い凄腕のメンバーに伍しているから、大したもの なのである。 頭も黒く、童顔だから、舞台にいると、とてもアラコキ(七十居 回り)には見えない。

 音痴だから、クラシックは、まるでわからない。 入場の列に並んでいたら、 四角い下駄のような顔が見えた。 同級のT君、大のクラシックファンだから、 管弦楽を聴くにはいい席だと彼の言う、一階中央で拝聴する。 もう一人、高 校卒業以来51年ぶりで、私の名簿では行方不明だった、同級生のI君にも会 えたのは、大収穫だった。

 河地良智(よしのり)指揮で、プログラムは、芥川也寸志「交響管弦楽のため の音楽」、マーラー「さすらう若人の歌」(バリトン独唱・河野克典)、ベルリオ ーズ「幻想交響曲」。 音痴にも、音楽には、やはり人柄・性格が出るというこ とがわかった。 芥川也寸志、派手で、にぎやかで、時にいたずらっぽい機知 がある。 そう赤松君にメールしたら、芥川也寸志は「一歳のとき父親を亡く し、物心ついたときから音楽が好きで、子どものときからハチャトゥリアン系 のガチャガチャしたのを聴いて育ったらしいんですね。だから、こんな曲を作 ったんです。シンコペーションはあるし、スイングはあるし、チェロとしても 美味しいところがあったし、面白い曲でした。」と、教えてくれた。 河野克典 さんというバリトンは、たいへんな人、当代随一のリリックバリトンなのだそ うである。

 慶應の中等部は昭和22(1947)年に義塾最初の男女共学校として発足したが、 芥川也寸志はその次の年に音楽家教諭として赴任、23年度一年間その職にあっ た。 当時、文学部教授だった折口信夫の詞に、すでに新進作曲家として活躍 を始めていた芥川也寸志が曲をつけた「中等部の歌」は、昭和23(1948)年9月 に日比谷公会堂でお披露目されたという。 『慶應歌集』を見ると、その一番 は「風に ひらめく 色の さやけき 慶應の旗 いよいよ はえむ 若きは 清 くあれ」。 『三田評論』平成21(2009)年10月号「義塾銘品館」は、『「中等部 の歌」楽譜』だった。 その斎藤慶典中等部長の解説に、これは中等部創立二 十周年にレコード録音された際の芥川也寸志自筆譜で、それまで中等部で折あ るごとに演奏されてきたピアノ譜にはない前奏部分が付いているという。 文 学部教授でもある斎藤慶典さんは、「まるで突然降ってきたかのようなこの短く も鮮やかな前奏の後ろに、作曲者の悪戯っぽい笑顔が垣間見えるような気がす る」として、「何しろ在職中は、ナベ、スリバチ、ヤカン、オロシガネ等々を用 いた「台所交響曲」なる珍曲の作曲と演奏にも精を出された御仁でもあったの だから」と、書いている。

森林荒廃と絵本『サルと人と森』<等々力短信 第1024号 2011. 6.25.>2011/06/25 05:29

 17日、慶應三高校の新聞部OB・OG会「ジャーミネーターの会」で、毎日 新聞主筆、岸井成格(しげただ)さんの話を聞いた。 岸井さんは、NPO法人 森 びとプロジェクト委員会という団体の理事長もなさっている。 会の目的を見 ると、「地球上のすべての生命にとって欠くことのできない『いのちの森』を作 る活動を行い、森づくりを通じて自然環境と人間の生命を大切にする心を育む 人づくりをめざす」「この活動を次世代へつなげ、『いのちを守るふるさとの森 づくり』を世界に広げていく」とある。

 国土の7割が森林という森林王国の日本で、今、森林の荒廃が進んでいると いう。 マツが枯れ、それが太平洋側を北上しているという話は、だいぶ前か ら聞いていた。 それがミズナラ、コナラ、シイ、ブナなどの広葉樹が大量に 枯れるようになり、亜高山帯の針葉樹やスギ、ヒノキなどもどんどん枯れてい るという。 日本海側でも、京都や滋賀で、この現象が進んでいる。 観光地 京都を囲む東山、西山、北山の山々が枯れ始め、それを庭園や借景にしている 寺社にとって、深刻な事態になっているらしい。

 遠因は、安い外国材の輸入によって、林業が衰退し、人手も不足、下草刈り などの手入れが行き届かないことにある。 マツ枯れなどは、ずっと虫の害だ と言われてきたが、それは学会と官庁の見解で、法律にも書いてある。 だが 日本海側、京都や滋賀の状況を見ると、大陸からの黄砂、酸性雨、重金属によ る土壌汚染の影響らしいのだ。

 『サルと人と森』という絵本を、森びとプロジェクト委員会が出版した。 石 川啄木が102年前に盛岡中学校の校友会雑誌に発表した『林中の譚(たん)』(林 の中の物語)を、石川啄木記念館の学芸員・山本玲子さんが現代語訳し、絵は多 摩美大出の鷲見春佳さんが描いた。 岸井成格さんは、この絵本の案内にこう 書いている。 「近代・現代文明が行きづまり、あらゆる分野で矛盾やホコロ ビが噴出しています。その最先端の問題が、地球温暖化と環境破壊です。」「文 化人類学者のトール・ヘイエルダールさんは、NHKのテレビで『進歩の行き 先は何ですか?その目的は何ですか?突き詰めれば《人が笑顔で幸せに暮らせ ること》ではないですか?人の幸せは、便利なものに囲まれていたり、ハカリ にかけて計るものではありません。幸せは感じるものです』と、語っていまし た。人はようやくそのことに気づき始めました。どうしたら迷路を脱すること ができるのか、手探りが始まりました。その解答の一つが、この絵本にありま す」と。  「ジャーミネーターの会」で、『サルと人と森』に40冊の注文があった。

「三田の時代を慕ふかな」2011/06/25 05:28

 「文学の丘」の入口に立派な棚が設えられ、「ノウゼンカズラ」が植えられて いる。 なぜなのか、説明はないが、私は「ははん」と思った。 「ノウゼン カズラ」が、凌霄花(りょうしょうか)であることを、俳句をやるずっと前、高 校生の頃から知っていた。 佐藤春夫の『殉情詩集』に「酒、歌、煙草、また 女」三田の学生時代を唄へる歌、というのがあり、試験の前になって、やむを 得ず勉強しなければならなくなると、愛唱していたものだった。

 ヴィッカスホールの玄関に 咲きまつはつた凌霄花 感傷的でよかつたが  今も枯れずに残れりや / 秋はさやかに晴れわたる 品川湾の海のはて 自分 自身は木柵(もくさく)に よりかかりつつ眺めたが / ひともと銀杏(いちょ う)葉は枯れて 庭を埋めて散りしけば 冬の試験も近づきぬ 一句も解けず フランス語 / 若き二十のころなれや 三年(みとせ)がほどはかよひしも 酒、 歌、煙草、また女 外(ほか)に学びしこともなし / 孤蝶、秋骨、はた薫 荷 風が顔を見ることが やがて我等をはげまして よき教へともなりしのみ / 我等を指してなげきたる 人を後目(しりめ)に見おろして 新しき世の星なり と おもひ驕れるわれなりき / 若き二十は夢にして 四十路に近く身はなり ぬ 人問ふままにこたへつつ 三田の時代を慕ふかな

 慶應義塾の文学科は、明治23(1890)年に大学部が発足したときに、法律科、 理財科とともに三学科で設けられたが、明治34(1901)年には在籍者がなくて中 絶したり不振が続いたので、明治43 (1910)年に森鴎外、上田敏を顧問に迎え て、文学・哲学・史学の三専攻に分ける改革をし、教授陣に永井荷風、馬場孤 蝶、戸川秋骨、小山内薫、山路愛山、幸田成友など、文壇・論壇の実作者、論 客が加わった。 永井荷風が編集主幹の『三田文学』(月刊)も創刊される。 久 保田万太郎、水上滝太郎(阿部章蔵)、佐藤春夫、堀口大学は、当時の学生であ った。

 「文学の丘」には、小山内薫胸像、久保田万太郎句碑、吉野秀雄(明治35(1902) 年生れ、経済学部中退)歌碑、そして佐藤春夫詩碑がある。 佐藤春夫詩碑は、 残念ながら、教育的配慮からか「酒、歌、煙草、また女」でなく、「さまよひ来 れば秋草の 一つ残りて咲きにけり おもかげ見えてなつかしく 手折ればく るし花散りぬ」という『殉情詩集』「同心草」から「秋くさ」が、小泉信三愛蔵 の佐藤の遺墨から刻まれている。

芸術、美術による日本の再発見、復興2011/06/17 05:53

ジャー・パルバースさんの、経歴のつづき。 1972年にキャンベラのオー ストラリア国立大学に赴任し、日本語や日本文学を講義。 1976年、オースト ラリア国籍を取得。 井上ひさしの作品に惚れ込んで、彼をオーストラリア国 立大学の客員教授として招致するよう運動。 後に井上作品の英訳も行った。  1982年と2000年に、アデレード・フェスティヴァルで数々の重要な芝居を演 出。このほか、メルボルン、キャンベラ、東京でも演出活動を行う。 また、 映画やラジオの脚本を執筆しているほか、マイケル・ナイマンとの共作で歌も 書いている。 1982年、大島渚監督の映画『戦場のメリークリスマス』で助監 督を務めた後、再び来日し、演劇活動を行う。 長編小説や短編集、戯曲、随 筆集、翻訳など、日本語と英語で25冊の著書がある。

再来日した80年代は、ルンルン時代だった、という。 テレビに「G.B.E. 現象」というものがあった。 外人、ブッシュマン、エリマキトカゲ。 外人 はケント・デリカットやケント・ギルバートなど。 ここにいらっしゃる皆さんと同じように、日本が大好き。 私のふるさとは、 日本だ。 オーストラリアに帰化したけれど、日本人でしょう。 アメリカ人 じゃない。 日本に帰化すると、改名しないといけないのは、いや。 名前は DNAに入っている。 好きな言葉は「蓴菜(じゅんさい)」と「風土」、好きな場所は(花巻の)「イギ リス海岸」、好きな食べ物は「ホヤガイ」。

元々、日本人とは何か、というのは、無意味だ。 賢治じゃないけれど。 ど この馬の骨か、わからない。 Japanというコンセプトをもっと広く考えると、 ヨーロッパやインドがわかるようになる。 「富国強芸」が必要。 芸術、美 術によって、日本の再発見をすべきだ。 「富国強芸」元旦(元年)という発想 で、復興したらいい。 京都にいた頃、浪花節を習って、青い目の浪曲師とい われ、師匠と河内の老人ホームを回って「野狐三次」や「左甚五郎」をうなっ て歩いたことがあったそうだ。 ロジャー・パルバースさんは、こう講演を締 めくくった。 「ちょうど、時間となりました」

宮沢賢治で人生が変わった2011/06/16 06:31

ロジャー・パルバースRoger Pulversさんを、ググってみると、「米国出身 のオーストラリアの作家、劇作家、演出家」、1944年ニューヨーク市で、ロシ アあるいはポーランド系ユダヤ人の家庭に生まれる。 カリフォルニア大学ロ サンジェルス校(UCLA)を卒業後、ハーヴァード大学大学院政治学研究科へ進 み、豊富なソ連旅行の経験を活かして、ロシア学を研究、「ソヴィエト近代史」 で修士号を取得した。 ベトナム戦争への反発から米国を離れ、ワルシャワ大 学とパリ大学に留学後、1967(昭和42)年に初来日とある。

講演で、ロジャー・パルバースさんは、9月に出す自伝に書いたので、三冊 ずつ買ってもらいたいが(笑)と、このへんの事情にふれた。 ワルシャワ大学 の大学院にいた時、ポーランドのスパイ事件に巻き込まれた。 実はCIAので っち上げ、濡れ衣だったのだが、まだ22歳だったので、茫然自失、為すとこ ろなし、デリカットな(その前にケント・デリカットの話をしていた)心理状態 になった。 ロシアや東欧の諸国にも入国できないから、研究も将来も、お先 真っ暗。 フランスへ出て、パリ大学へ行き、フランスの女性とねんごろにな り、こんにゃくになったが、ふられた。 彼女は哲学者と結婚した。 だから 哲学は大嫌い、実存について聞かれても、実に存じません。 彼女とは2年前、 偶然39年ぶりに大岡山の駅で会って、ハグした。 ハイデッガーのエキスパ ートになっていた。 その話は、本で…。 「初恋、地獄篇」、パリにいられな くなって、1967年5月アメリカに戻り、両親に「日本に行くのだ、行ったこと がないから」とわからないことを言って、日本に来た。

宮沢賢治のとりこになって、花巻に行った。 駅の案内所で、賢治の生家を 教えてもらった。 名札が「宮沢」で、驚いたら、弟の清六さんが出て来て、 いろいろ親切に教えてくれ、案内してくれた。 当時65歳、いまボク67歳。  アメリカで日本文学というと、コロンビア大学の某先生、もう一人の某先生も、 川端康成、谷崎潤一郎、三島由紀夫で、宮沢賢治はやらなかった。 当時は、 日本の人も、わかっていなかった。 私の人生は、宮沢賢治で変りました。

今回の大震災で、宮沢賢治が注目され、各国の追悼集会で「雨ニモマケズ」 が読まれている。 賢治の自己犠牲や慈悲がクローズアップされているが、そ れだけではない。 環境や動植物、自然への関心、人間の自我(コンシャスネス)、 宗教性。 三大宗教は、私はなぜ生まれたのか、を問う。 賢治にとっては、 別の大問題がある。 なぜ私は私なのか、あなたじゃないのか。 賢治はそれ で悩んでいる。 賢治は「私はあなたである。あなたの痛みは、私の痛み」。 こ の賢治の、信念の貫く宗教観は、大震災で、わかりやすくなった。 井上ひさ しに『水の手紙』(2003年)という作品がある。 最上川は、テムズ川につなが り、日本の海は、インドの海、世界中の海とつながっている。 今、放射能で 汚染された海は、世界の海とつながっている。

宮沢賢治の、21世紀の日本人へのメッセージは、この宗教観しかないかもし れない。 心、自然。 技術、技術でやってきたが、技術は中国や韓国にもあ る。 大震災でよかったことというと叱られるかもしれないが、日本人がそれを 思い知ったことだろう。