ロジャー・パルバースさん、来日の頃2011/06/15 05:39

11日の昼間は、ご近所の宮本三郎記念美術館(世田谷美術館分館)のイベント に、面白そうな講演会があったので、聴きに行った。 ロジャー・パルバース さん、東京工業大学世界文明センター長、演題は「面白い日本の私」。 寡聞に して、私はロジャー・パルバースさんを知らなかった。 長身でハンサム、ぺ らぺらの日本語は、ユーモアたっぷりだった。

 「面白い日本の私」、川端康成のノーベル賞受賞スピーチ「美しい日本の私」 を踏まえているが、日本が面白いのか、私が面白いのか、日本語、特に「の」 は難しい、と。 ロジャーさんは、1967(昭和42)年9月に初来日した最初の日、 「これは俺の国だと思った」日本大好き、「前世は大岡山のナマズだったかもし れない」という。 首相は佐藤栄作。 佐藤B作でなく…。 日本語は「サヨ ナラ」と「アリガトウ」しか知らず、羽田から目黒のホテルまでタクシーに乗 った。 1,500円、運転手が「すみません」と言ったので、会話辞書をみたら “Excuse me”とあって、びっくりした。 ホテルは2ドル、720円だった、 もっとも300ドルしか持っていなかったけれど…。 ホテルの近くにテントみ たいな屋台があって、最初に食べた日本食は「おでん」。 だから最初に覚えた 日本語は「ちくわ」、つぎが「ロールキャベツ」。 日本に行くのだ、と決めて、 知り合いの知り合いの名前とアドレスだけを持って、やって来た。 若泉敬氏 (国際政治学者で、沖縄返還交渉で佐藤栄作首相の密使だったといわれる人物)、 当時、京都産業大学の先生で、千駄ヶ谷にあった大学の東京事務所で会った。  「自民党大学」といわれるような大学だったが、ポーランド語と、ロシア語の 講座があり、講師になる契約書を荒木俊馬学長と帝国ホテル(その年に改築され る前の)で交わした。 お目にかかった時「荒木大統領、こんにちは」と言った のだった。 Presidentだ。

 新幹線には当時、女性のいるほんもののバーがあった。 京都の深泥(みどろ が)池のほとりに住んだが、グレープフルーツがまだ自由化されていなくて、近 所の八百屋には「西洋夏みかん」と書いてあった。 もっとも以前は「アボガ ド」と呼ばれていた「アボカド」、母親の話では1920年代のニューヨークで、 「鰐梨」アリゲ―ター・ペアと呼んでいたそうだ。 南座のそばの蕎麦屋でも ヘマをした。 若いウェートレスに「にんしんそば、下さい」。 五年間、京都 にいて、京都工芸繊維大学でフランス語を教えている阿部哲三に、一番美しい 日本語は、宮沢賢治だと聞いた。 (梶井基次郎「檸檬」の)今はなき河原町蛸 薬師の丸善で、童話集を買ってきて、座敷ぼっこの話を読んで、とりこになっ た。 宮沢賢治がいなければ、私は作家にならなかった。

桃介と西園寺公望、「坐漁荘」2011/06/12 06:46

 今回の旅行の最後に、ひさしぶりに博物館「明治村」へ行った。 フランク・ ロイド・ライトの帝国ホテルでお茶を飲んで来た。 村内地図を見ると、西園 寺公望の別邸「坐漁荘」もあったのだが、寄る時間がなかった。

 西園寺公望の話が『桃介・独立のすすめ』に出てくる。 内閣総理大臣だっ た当時のことだ。 竹越與三郎、三叉(さんさ)という歴史家、評論家がいた。  桃介より三歳上、慶應義塾に学んで、『大阪公論』、『時事新報』、『国民新聞』の 記者をしていて西園寺公望に知られ、その信任を受け、日清戦争当時、西園寺 の後ろ楯で『世界之日本』という雑誌ができると主筆、第三次伊藤内閣(明治 31年)で西園寺が文部大臣になると文部省勅任参事官に任用され、明治35年以 降は衆議院議員に当選五回、政友会に所属していた。

 その竹越與三郎が、おなじ埼玉県人、慶應義塾ということで、桃介に好意を 寄せ、株で大成金になったときくと、大いに喜び、「ただ金があるというだけじ ゃつまらん。ここらで西園寺公に近づかせて、次の活躍にそなえさせてやろう」 と考えた。 西園寺公望内閣総理大臣、毛並みのよさに加えて、高雅な人格、 新知識の持主として早くから人望を集め、当代人気者の頂点にあった。 普通 の人間なら、紹介しようという竹越の言葉に、有頂天になるところだが、桃介 は「親切はありがたいが…」と断り、「君に口をきいてもらって近づきになると、 西園寺公は、桃介も竹越三叉とおなじくらいの人間だとしか見ないだろう。お れは自分の力で近づきになってみせるよ」と啖呵を切る。

 西園寺は、若い頃からプレーボーイとして鳴らした粋人だ。 桃介は新橋に 西園寺攻略の布陣を敷いた。 何しろ、株で儲けた二百五十万円という現ナマ がある。 お茶屋も一流、芸者も一流どころを五、六人呼んでも、一晩十五、 六円あればよかった。 西園寺が贔屓にしている芸者たちの名を調べ上げ、そ れをすべて買い切って、連夜の遊びを続けたのだ。 西園寺首相は、ときおり 新橋にやってくる。 ところが気に入りの芸者は一人も姿を見せない。 つま らなそうに帰ってゆく。 そんな失望の晩が半年も続いた。 当然、福沢桃介 という名が耳に入ってくる。

 桃介の才能は、タイミングのよさにある。 ここが汐時、という所を見逃さ ない。 料亭の女将から、西園寺が桃介のことを知りたがっていると、耳打ち されると、戦術を転換した。 芸者たちに西園寺からお座敷がかかったら、顔 を出すこと、ただし花代は自分につけろ、と指示した。

 西園寺は竹越三叉に相談し、桃介を招待した。 桃介は、内閣総理大臣の招 待に、少しもひるまず、わるびれず、床の間を背にした上座に座ってにこやか に応待した。 これが機縁になって、桃介は西園寺に気に入られ、興津にある 別邸「坐漁荘」にも自由に出入りできる知遇を受けた。

 小島直記さんは書く。 「桃介はその好意に甘えないだけの慎しみを心得て いる男だった。それは、自分自身の矜持のしるしである。西園寺の地位、とき めく花形ぶりの故に近づき、利用しようとはしなかった。あくまでも人間同志 のつきあいで通そうとした。対等に、である。」「彼は、西園寺が政界を引退し、 元老とよばれながらも悠々自適の閑日月を送るようになってからようやく、坐 漁荘をしばしば訪問し、土産と豊富な話題で慰めることにしたのである。」

木曽川は水力発電に最適だった2011/06/11 05:39

 今回の旅行、名古屋から乗った名鉄電車が貞奴の墓所のある新鵜沼行き、泊 まったホテルが桃介ゆかりの名鉄の犬山ホテル、メイン・イベントの木曽川鵜 飼と、翌日の快晴快適だった太田からの日本ライン下りも飛騨木曽川国定公園 と、福沢桃介にかかわりの深い旅となった。

 『桃介・独立のすすめ』に、なぜ桃介が木曽川を電源開発の対象に選んだか が、書かれている。 長野県を源に、岐阜県に入った木曽川は支流飛騨川を合 わせて、太田の埋積盆地に出て、また峡谷をつくり、日本ラインの景観を見せ る。 濃尾平野を流れて、伊勢湾に注ぐまでの全長230キロ、東海一の大河だ。

 桃介は、わらじをはき、技術者を連れて、この流域の森林、峡谷を、実地に 調査して歩いた。 調査を進めれば進めるほど、桃介の眼は希望に輝いた。 一 般的にいって、水力発電に必要な条件は、五つある。 (1)水量が豊富であるこ と。(2)河川に急勾配による落差が多いこと。(3)電力の消費地に近く、送電設 備に多額の経費を要せず、送電途中のロスが軽微なこと。(4)鉄道運輸の便が近 くにあること (発電所建設の資材運搬に有利) 。(5)水源が深く、四時水流が枯 渇しないこと。

 日本全国に川は多いが、この条件を全部備えているものはまれである。 た とえば、水力発電の歴史で、早くから着手された川の中でも、鬼怒川は落差は 多いが、水量は多くない。 宇治川は、琵琶湖があるので水量は多いが、落差 は少ない。 ところが木曽川は、以上の五条件を全部備えているのだった。

桃介と松永安左エ門、水力発電計画2011/06/10 06:08

 松永安左エ門は、明治22(1889)年に15歳で慶應義塾に入ったが、明治26 年に郷里壱岐で酒造業などを営んでいた父の死去にともない義塾をやめ、家業 の整理に当たった。 三年後の明治29(1896)年、慶應義塾に復学、31(1898) 年中退、福沢桃介の紹介で日本銀行に就職し、約1年間勤めた。 その後は桃 介の勧めで、桃介との共同事業に尽力した。

 小島直記著『桃介・独立のすすめ』に、松永が諭吉に将来のことを相談した ら、独立した実業家がいい、まずはうどん屋、つぎは風呂屋の三助、さらには 焼芋屋をすすめられたという話が出てくる。 それを松永が桃介に話すと、葭 町の料亭に招待してくれた。座敷に貞奴が出て来て、桃介のそばににじりよる、 その様子から松永は二人が特別の仲なのをさとった。

 この頃、福沢諭吉は『時事新報』で「水と電気」について論じ、「日本は天然 資源が少ないというが、気をつけてみればあるではないか。山高く、水多く、 水力電気を起すには、世界無類の国だ。なぜこれに手をつけないか」と書いた と、小説は続く。 『福澤諭吉事典』の「『時事新報』社説・漫言一覧」を探す と、明治25(1892)年 4月12日「水力と電気」、紙面の記名〔クレー、マッコ ーレー演説〕かと思われるが、残念ながら『福澤諭吉全集』には収録されてい ない。

 葭町の料亭で、桃介が松永を誘ったのは、出願中の利根川水力発電の仕事だ った。 上州前橋のあたりの村々で有力者を訪問、夜は宴会、自分は病み上が りで酒が飲めぬから、松永も一緒に来て、とりもってもらいたいというのだっ た。 秘書役、宴会係り。 桃介が「常盤屋」という料亭の女将で、もと葭町 の芸者だった女に思いをかけ、松永に話をつけてくれないかと頼むエピソード も出てくる。 松永は、福沢家の背景で事業をしているのだから、離縁になっ たら元も子もなくなると、正直に女将に話して、ことをおさめた。 この利根 川水力電気会社の構想は、莫大な資金が必要だったが、三井銀行の中上川彦次 郎がさっぱり関心を示さず、画餅に帰した。 しかし、後年の木曽川の電源開 発につながって行くのである。 桃介は、松永を「先輩の山本達雄さんが総裁 となって、坂田実さんが塾の幼稚舎舎監をやめ、理事にしてもらった」と、日 本銀行に紹介する。

《真面目》で《理づめ》「桃介流相場術」2011/06/09 06:49

新幹線の中で読んだ小島直記著『桃介・独立のすすめ』(新評社)から、少し 書こうと思う。 1972(昭和47)年の発行、私が学校を出て、しばらく銀行勤め をしたあと、家業のガラス工場に戻って数年という時期である。 当時、明治 の人物や経営者を描いた小島直記さんの伝記小説を愛読していた。 今でも本 棚に、『福沢諭吉』、『福沢山脈』、『一期の夢』(福地櫻痴伝)が、残っている。

『桃介・独立のすすめ』には、福沢桃介が療養後再就職していた北海道炭礦 鉄道を退職した頃の五年間に、ほとんど無一文の状態から株式相場で儲けた金 は三百万円、今日(昭和47年)の五、六十億円だったとある。 彼はどのように 成功したか。 だれもが《カン》のよさ、するどさを挙げるけれど、小島直記 さんは彼流儀のやり方をやるうちに、先天的にも、そして後天的に鍛え上げら れた素質としての《カン》が働いて、勝った「桃介流相場術」があったと考え る。 桃介自身の言葉に「予は相場に対してあくまでも真面目である。真面目 であるから相場にも成功したのである」「ただ相場はいかに真面目にやっても損 をする場合が多い。そこへ行くと事業は真面目にさえしておれば、きっともう かるものである」。 《真面目に相場を考える》、徹底的な《理づめ》だった。 

株式相場の変動は、「秩序なきがごとくなれども、しかもなお一定不変の真理 存す。株式相場の変動もまた実に時と数との問題に他ならぬ」。 タイミングと、 数、すなわち大勢(勢い)を見きわめることに、彼の行動基準があった。

《理づめ》の探求は、まず国内情勢から、国際情勢の動きをたえず研究する。  政治情勢については、政界大物と接触して、微妙な動き――派閥、感情、金権、 利権、元老の思惑等々まで目をくばる。 目的の株の会社の内容についても、 ただ公表される営業報告書だけでなく、役員たちの言動、その遊興の内容、相 手先まで調べつくした。 さらには株式市場において大量の売買をする仕手関 係も研究した。

なによりも桃介は、相場に最上のたのしみを見出していた。 「自分の頭を 働かせて、金をもうけることは予にとって無上の楽しみであり、最大の愉快で ある。人間は変化を好み、波瀾を好んで単調と平板の生活をきらう」、「銀行や 政府に金をあずけておけば、だまっていても他人がもうけて割前をよこしてく れる。これほど男らしくない金もうけは他にあるまい」、「世の中には望外の楽 しみというものがある。意外のことでなければ本当に心を動かすには足らぬ」、 「相場の興味はいかにも男性的で望外の楽しみを楽しまれるところにある」