「智を研き徳を修めて人間高尚の地位に昇る」 ― 2026/02/04 07:10
1. 智徳の弁 : バックル文明史の応用のみか? 福沢が成稿に苦しんだ章
mental progress : 徳moralと智intellectual→「文明」にとって本質的(バックル)
「モラル」 : 「心の行儀」①「私徳」=貞実、潔白、謙遜、律儀 ;「心の内に属す」
②「公徳」=廉恥、公平、正中、勇猛 ;「人間の交際上に」
←ミルの「私徳」(self-regarding virtues)と「公徳」(social regarding virtues)
◎バックルにない区分を福沢が『大学』・『中庸』などを援用してミルを参照に明確化。
「インテレクト」 : 「事物を考え、事物を解し、事物を合点する働き」
① 「私智」=物の理を窮めて、応用する働き
② 「公智」=人事の軽重大小の分別 ; 重大を先に軽小を後にし時と場を察する働き
←ミルの‘regarding’を「智」にも応用
cf. 「私智」 : 公正でない智慧、狭い考え(『韓非子』)
「心を尽くすは私智崩さず」(朱子)
「公智」 : 世間で知られている周知の意
◎「野蛮の太平」から「文明の太平へ」: 「私智私徳」を推し広めて「公智公徳」に
←「聡明叡智」(外界の事物の認識+内面的思慮深さ): 『中庸』の「天下の至聖」「大徳」
→「公智」 : ワットの蒸気機関、スミスの経済学 : 智恵が世界の面目を一変
→智徳兼備 : クラクソン(奴隷売買の悪法の廃止)、ハワード(囚人虐待の改善)
智を道具として徳を拡大
日本 : 「徳義」は「一人の私徳」で「内に存する」→「パッシーウ」(受け身)
一般論 : キリスト教道徳における受動的服従の教説、積極的よりも消極的
道徳学者や人間の一般的同感←ミル
徳義 : 情愛であって規則ではない
智恵 : 規則 ; 事物の順序を整理する目的←人の誤り
人の悪を防ぐ目的←人の悪心
「智徳事業の棚卸」「経済の公論に酔いて仁恵の私徳を忘るるなかれ」(すゝめ)
←誤りを正すことができるのは智的存在としての人間の尊厳(ミル)
cf. 徳の両義性 : moralとvirtue : ミルも福沢も両者の意味合いの相異を理解。
安西敏三さんは「結び」智徳兼備への絶えざる研鑽 : 文明の要 : 「智を研き徳を修めて人間高尚の地位に昇る」として、ミル『功利論』への福沢の書き込みを挙げた。
「ノーブルフヒーリングは若き草木の如し 社会中に交わる己が地位の有様に由て容易に消滅す可し 今の少年が妻を娶り官員に為りて後に気力を失ふが如し されども中心に勘弁して(考えて物を決める)賤しき快楽を悦て尚高の気風を投棄せんと欲する物はある可からず 必ず心の内には一点の廉恥存するものあり 旧友が折々尋問に来り或は近辺に居を移さんとする抔 再ひ近かんとするが如きは即ちノーブルフヒーリングの未だ全く枯死せさる者なり 蓋し人に交るの要は此のフヒーリングを勉めて養成すに在り」
(社交の必要性、「人を毛嫌いするなかれ」。人間はあらゆる分野でレベルアップしなければならない。)
(この部分は、伊藤公平塾長の年頭挨拶にも出て来たので、1月15日の当日記に一部を引き、「当時の日本は、外国交際病、貿易の搾取、外国人は利益を求めて、理屈を出してくる。 一人、一人の能力を高める必要がある、昨今の国際情勢、利と理を考えないと、弱肉強食の世界になってしまう、現在進行形の問題である。」と書いた。)
新たな習慣を創始して賢明なる行為を ― 2026/02/03 07:04
1. 衆論と習慣
「国内衆人の議論」: 「その時代にありて普(あまね)く人民の間に分賦せる智徳の有様」→「習慣」によって「体裁」→「停滞不流の有様」→幕府 : 「因循姑息」。
「智力」が権を得る習慣 : 「彼の報国心の粗なる者をして密ならしめ、未熟なる者をして熟せしめ、以て我国体を保護することあらば、無量の幸福」(「国を思ふ心」)<「天稟の愛国心」> から「国を思ふ理」<「推考の愛国心」> へ(←トクヴィル、ミル)
西洋諸国の衆論 : 国人各個の才知より高尚にして人物に不似合いな説と行動。
東洋諸国の衆論 : 知恵に不似合いな愚説を吐きて不似合いなる拙を尽くす。
「習慣の相異」←「衆議の法」 : 「数十百年の古より世々の習慣によりてその俗を成し…今日に至ては知らずして事を成す可し。」
「習慣の久しきに至れば第二の天然と為り、識らず知らずして事を成す可し。」
←“Habit is second nature” : 「習慣」は人為であるがため変革可能、「天然」は自然←ミル「習慣の圧制」(the despotism of custom) : 東洋の特徴。 「堅実な習慣」(the steady habit) : 誤りの是正と確実性。
「日本人が無議の習慣に制せられて、安んずべからざるの穏便に安んじ、開くべきの口を開かず、発すべきの議論を発せざるに驚くのみ。」「利を争うことは古人の禁句なれども、利を争うは即ち理を争うことなり。」
「一国の人民として地方の利害を論ずるの気象なく、一人の人として独一個の栄辱を重んずるの勇力あらざれば、何事も論ずるも無益なるのみ。」(自尊心、独立自尊の契機) : 自然ではなく習慣。「習慣に依りて失うたるものなれば、これを快復するの法もまた習慣に由らざれば叶うべからず。習慣を変ずること大切なりと云ふ可し。」
←ミルのindividuality論 : 新たな習慣を創始して賢明なる行為を。
(つづく)
安西敏三さんの「福澤諭吉の智徳論―J・S・ミルとの関連を中心に」 ― 2026/02/02 07:06
安西敏三(としみつ)さん(甲南大学名誉教授)は、1月10日の第191回福澤先生誕生記念会の記念講演で、「福澤諭吉の智徳論―J・S・ミルとの関連を中心に」を聴いていた。 私には難解だったが、レジュメをもらったので、それによって辿ってみたい。
1. 「新しい世界には新しい政治学が不可欠である」(A. d.トクヴィル)
儒学は「己を修め人を治める」・「修身斉家治国平天下」(『大学』)を原則とする政治哲学だが、福沢は「修身斉家」は個人の問題、「治国平天下」は政治の問題であって、別だという。 「内に存する無形のものを以て外に顕わるる有形の政に施し、古の道を以て今世の人事を処し、情実を以て下民を御せんとするは惑溺の甚だしきものと云ふべし」。 「修身斉家」とは区別された「治国平天下」の政治学が不可欠だとする、政教一致批判だ。
「政治の名を何と名るも、畢竟、人間交際の一箇条」(←ギゾー、バックル、ミル)。 江戸時代は政治を武士=官僚に任せていたが、それは社会の一部、政治以外で活躍する必要がある。 文明は、精神mental(「道徳」Moralと「智恵」Intellectual)の進歩progress(バックル)。 なお、後に儒教主義による徳育論に抗する「科学としての政治学」の必要性(←ミル)を説いた。
2. 両眼主義「両眼を開いて他の所長を見るべし」
多事争論と比較的視点の必要性(←ギゾー、ミル)。 反対論も含めて議論し、確実性を保障→「智恵の獲得」・「人間知性の本性」(ミル)。 cf. 諫めの重要性 : 堀景山(本居宣長の先生)の「聖人」、「東照宮諫言を容れ給ひし事」(湯浅常山)。 (つづく)
馬場辰猪作の幕末維新物語「悔悟」の意味するもの ― 2026/01/29 07:04
ここからは、以前に書いた、馬場辰猪作の幕末維新物語「悔悟」<小人閑居日記 2016.7.13.>のその後の部分と、杉山伸也さんの解題である、「悔悟」の意味するもの<小人閑居日記 2016.7.14.>を再録することにする。
5年の歳月が流れて、1868年の初め、川田と義助は上野の山で官軍と対峙していた。 夜警をしている義助の前に、黒覆面の賊があらわれ、渡り合う。 槍で致命傷を与えると、賊はその槍で自らを突き刺し、覆面を取る。 川田だった。 自らが親の仇であることと、それまでの心情の変化を告白する。 川田は義助に、日本の政治的権威はただ一人であり、朝廷と幕府の分裂は国力を弱める、日本は統一されるべきで、義助は一刻も早くこの地を離れ、尊皇派の中でももっともすぐれた指導者、西郷隆盛、木戸孝允、後藤象二郎に会うようにと、紹介状を手渡す。 新政府に出仕しろ、20年後には能力も気品もない政治家が指導者になるので、今の幕府と同じように瓦解するだろう。 それまで命を無駄にせずに生きろ。 そう言って、川田は腰の脇差で自害した。
上野の戦さのあとの戦場に、黒衣をまとい黄色の袈裟をかけた若い仏僧があらわれ、兵士たちの命をすくい、苦痛をやわらげ、傷病者に加護を与えた。 質問には何も答えず、名前だけは「悔悟」とこたえた。
戊辰戦争後、仏僧は山あいの寺に隠遁し、すべてを慈善事業にささげた。 死後「悔悟上人」と呼ばれるようになった。 その法衣の胸襟には、三つの紹介状が入念に縫いつけられていたという。
「悔悟」の意味するもの<小人閑居日記 2016.7.14.>
杉山伸也さんは「悔悟」を解題して、「生」と「死」の問題を扱っているとする。 亡くなる半年前、馬場にはもはや生きて明治日本の政治改革に参加する選択肢は残っていなかった。 馬場は明治維新を貴族政治から民主政治の時代へ社会を大きく変化させた「革命」の時代とみて、新生日本の原点として新政府の開明性・革新性に期待した。 馬場は戊辰戦争当時、土佐に帰り、戊辰戦争に身を投じる機会を逃し、それがコンプレックスとなっていた。
1878(明治11)年5月馬場が二度目の英国留学から帰国した三日後、大久保利通が暗殺され、「能力も気品もない第二世代の政治指導者」が政権をになうようになった。 政局は混迷化し、明治14年の政変で藩閥による支配が確立した。 馬場の期待した民主政治の方向とは真逆の、専制化・圧政化の方向が顕著になり、言論・出版や集会の自由に対する統制が次第に強化された。
「悔悟」で、川田も義助も、目的であったはずの「復讐」は、ともに果たすことも、果されることも、かなわなかった。 この意味では、明治新時代の方向を逆行させるにいたった明治政府に対する「復讐」、いいかえれば米国の世論による明治日本の外からの改革を果たすこともかなわず、志半ばで逝った馬場の心情を描き出していると考えられなくもない。
馬場は英国時代を共有した共存同衆をはじめとする多くの友人たちが、政府に出仕している中で、みずからその可能性を断ち切り、在野であることを貫き通し、教育や啓蒙活動など「民心之改革」に専心した。 馬場を踏みとどまらせたのは、明治政府から一定の距離をおき、在野であることを貫き通した福澤諭吉の存在であり、また福澤の「民心之改革」への想いにたいする馬場の共感であったことは否定できない。
民衆の側に立ち続けることが、武士の血をひく者としてのプライドであり、自分こそが日本における自由党(リベラル)の精神を代弁しているというつよい自負心であったといえよう。
馬場が明治維新に間に合うようにもう少し早く生まれていれば、新しい明治の時代をもっとふさわしい方向に導くことができたと考えたかも知れない。 しかし、現実の明治日本はどうであったか。 政府だけではなく、民権家もまた民衆も馬場の期待からはほど遠かった。 このように考えると、馬場のいう「悔悟」とは、自分自身の無力さへの実感と、明治維新の時点にさかのぼって再度歴史をはじめるべきであるという明治日本の「悔悟」であったのかも知れない、と杉山伸也さんは書いている。
名人川田和泉の下男義助、門人となり修業 ― 2026/01/28 07:12
川崎勝さん翻訳の馬場辰猪作『悔悟』。 黒田の遺骸は、顔見知りの連中が戸板に乗せ、大きな菰を被せて、黒田の家に運んできた。
「このような悲しみに襲われた家の状況は筆舌に尽くせるものではない。しかし黒田の妻は、いかなる試練の身でも深奥の感情を押し殺し、負わされた務めを果たすという、あの日本婦人の一人であった。彼女は夫の遺体を受け取り、運んできてくれた全員に深々とお辞儀をして、慇懃に礼を述べた。
人々が去り、五歳の息子と二人残されると、彼女は今や父無し子となった息子をひしと抱きしめて、咽び泣きながら、
「義助」、と息子の名を呼んだ。「お父様はいつかきっとこうなると思っていたよ。お酒を呑むとほんとに見境がなくなるんだから。武士がこんな恥ずかしい死に方をするなんて! でもこの日を忘れないでおくれ。お前が大人になったら、お父様を殺めた者を探し出して仇を討つんだよ。」」
この出来事があってから十五年ほど経った江戸に、川田和泉という高名な旗本がいた。 その名声は国中に聞こえていて、剣と槍の名人であり、将軍の指南役の一人だった。 下男の中に、聡明で、言い付けを注意深く聞き、何事もてきぱきと粗漏なくしてのけるのがいて、門人たちの剣と槍の稽古を熱心に眺める姿が頻繁に見られた。
或る日、川田がその義助に声をかけ、身の上を尋ねると、「私の父は武士でした。私は幼いときに両親を失いました。住む家もなく乞食になるところでしたが、親切な町人に拾われて育ててもらったのです。」 その父の名を訊ねると、躊躇(とまど)い、しばし考えてから、「私には一生の志がございます。私の身上を申し上げたなら。志を果たすのにご助力くださりましょうか?」 「力の及ぶかぎり手を貸そう。武士の名誉にかけて約束する。」 「父の名は黒田藍蔵と申します。隅田川の土手で名の知れぬ侍に斬られました。母は父の死を嘆き、三年後に亡くなりました。父の敵(かたき)を私が探し出して仇を討つことが、母の遺志でございました。これが私の一生の志でございます。」
「義助が身の上を語っている間、かれの主人は何か強い感情を必死に抑えているようだった。若い下男の物語が終わると、川田は言った。
「私が武士の名誉にかけて助力を約束したからには、お前は父君の敵を探し出して仇を討つことだろう。それにはまず剣を学ばねばならぬ。今日よりお前は下男ではない。私の門人に加えよう。」
かれの義助に対する親身の情は、まさしく息子に対する親のそれであった。義助もこれを悦び、いつしか川田を実の父と慕うようになった。
かくして五年が過ぎた。義助の剣の腕は非常に上達し、槍の扱いも修めた。」
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