六月六日、祇園会の宵山、若冲は事実に気付いた ― 2025/07/12 07:10
七年前、焦土と化した京で君圭から託された赤子は、あの強情者の子とは思えぬほど、素直な少年に育っている。 若冲を実の祖父と信じ、「お前のふた親は大火事で亡うなったんや」という作り話を疑いもしなかった。 顔料や絵筆を玩具代わりに大きくなったためか、それとも父親の血のゆえか、育て親の贔屓目を差し引いても、晋蔵はわずか八歳とは思えぬ達者な絵を描く。 晋蔵の出自を知らぬお志乃は、「兄さんは、晋蔵を絵師にしはるおつもりどすか」と、若冲の熱心さに苦笑する。
六月六日、祇園会の宵山。 四条界隈の商家や町会所は、通りに面した広間に山鉾所縁の屏風や人形などを飾り、見物の衆に披露する。 金忠こと金田忠兵衛は、若冲の遠縁の西陣の織屋だが、去年、若冲と晋蔵が碁盤の目に描いた白象と獅子の二枚折り屏風を、町会所に貸したら、えらい評判だったという。 今年は、自分の所に飾ると意気込んでいたので、若冲は晋蔵を連れて、見せに行くことにした。 伏見の石峰寺から駕籠で行き、四条室町の手前から混雑で歩く。
菊水鉾の会所で、画帖に写生している男がいた。 枕慈童の人形は愛らしく、左右に座る町役のしかめっ面と対をなし、壁に巡らされた胴懸け、麗々しく飾られた一斗樽まで精緻に描かれているのに、人形の背後の屏風だけが、写す価値なぞないと言わんばかりに真っ白だった。 晋蔵が絵に感心し、声をあげたので、同業とわかり、話をすることになる。 江戸から参った、谷文五郎と申す、陸奥白河藩主、松平越中守さまの近習、上方の絵を学びたいと考え、上洛した、と言う。 松平越中守こと松平定信は、前老中である田沼意次の政策を悉く停止し、幕府財政の再建を目指したものの、その改革のあまりの苛烈さから、わずか六年で幕閣を去った老中首座。 京においては先の大火後、財政窮乏著しい幕府の面目と威信を保ちながら、禁裏造営の総指揮を取った辣腕と認識されている。 定信は老中を辞した後もいまだ幕政に強い影響力を有しており、その近習となればと勘ぐると、「近習と申しても、それがしの取り柄は絵だけ、殿様は案外、書画骨董がお好きで、お傍においていただけるのでござる」と、からりと明るい。
文五郎の画帖には、晋蔵と描いた白象と獅子の二隻の屏風と同じように、碁盤の目に描いた群れ集う獣を描いた屏風絵があって、どこで写したかと聞くと、一本西の通り、放下(ほうか)鉾町内の煙管屋の店先だという。 碁盤の目に区切る画法は、自分が晋蔵のために考案したものだ。 若冲は文五郎に晋蔵を室町蛸薬師の金忠の店に預けてもらうように頼んで、煙管屋、木津屋に駆け付けた。 君圭は去年宵山で目にした二曲屏風を下敷きに、こんな途方もない大作を描いたのだ。 ひどく寒々しい一条の光が、若冲の胸底を照らした。 そうか、お前は……わしという画人そのものやったんやな。そうや、君圭、お前がわしを絵師にしたんや。
なぜもっと早く、その事実に気付かなかったのだろう。 長年若冲を脅かし、時に絶望の淵に突き落としてきた君圭は、自分をあの奇矯と陰鬱が入り混じった絵に駆り立てる唯一の存在。 そして老いたこの身に今なお絵筆を執らせる晋蔵もまた、君圭によって与えられた幼な児ではないか。 そう、自分たちは夜寒の鏡を隔てて向き合った、光と影だったのだ。
錦高倉市場の危機を解決する ― 2025/07/10 07:06
十日後、源洲の案内で錦高倉の会所にやってきた中井清太夫、風貌は貧弱だったが、一通り話を聞くと、「分かりました」と妙に断定的な口調でうなずいた。 奉行所は両者の冥加銀の申し出に関し、賄賂と受け止めて躊躇し、煮え切らぬ事態になり、長引いているのではないか。 この蔬菜出荷者の一覧に壬生村があるが、ここにはご公儀の蔵がある。 この村から代官所に、市で作物が売れねば収入が減り、年貢が納められぬと愁訴させたらどうか、ご公儀には市の難儀より年貢の方がはるかに大事だから、と。 この迅速な決断に、若冲たちは顔を見合わせた。 これまで市側の苦衷を訴えるのに精一杯で、出荷者である百姓から働きかけるなど、まったく思いもよらなかったからだ。
壬生村の庄屋は承知し、請願は多いほうがよいと、洛南の村はもとより、洛東三村にも呼びかけ錦高倉市場存続を出訴した。 代官所は、錦高倉と取引のない洛東三村からの上訴を却下、そればかりか出訴した各村の惣代が呼び出され、糾問が行なわれる事態になった。 その裏には、錦高倉の動きを察知した五条問屋町の、特に明石屋半次郎の働きかけがあったと知れた。 また親戚の半次郎か、若冲は町年寄を辞し、平の身で動くことにした。 中井は、実際に取引のある七村だけで願書を再提出するように指示してきた。
解決しないまま春となり、大坂で多忙な中井に言われ同役の若林市左衛門がやってきて、もともとの冥加銀の額が間違っていた、百姓から受け取っていた店賃の一部も上乗せして上納すると申し立てろと言う。 そうすれば、表向きは何の不自然もなく、五条問屋町の銀三十枚を上回る冥加銀が納められる。 銀三十五枚で、公認の市場とのお墨付きの裁可が下りた。 錦高倉の町役たちは大変喜んで若林に感謝したが、若林は実は中井の案だったと明かした。
お志乃が隠居所に飛び込んで来た日からほぼ二年、絵筆を放りっぱなしの年月だった。 引き受けていた仕事は皆断ったが、中にはどれだけ先になっても待つという奇特な客もいる。 騒動に片がついたら、一日も早く仕事に戻らねばなるまい。 そういえば、関目さまは結局、君圭に絵を描かせはったんやろか。 あまりに長期間絵から離れていたため、以前の勘がすぐに戻るか、甚だ心もとない。 だがそれでも君圭の絵を目にすれば、心の底に埋もれていた熾火がかっと燃え立とう。
茂右衛門の伊藤若冲、町年寄となる ― 2025/07/09 07:08
ここで伊藤若冲についての、事実関係と年代を確認してみたい。 「ウイキペディア」には、「齢40となった1755年(宝暦5年)には、家督を3歳下の弟・白歳(宗巌)に譲り、名も「茂右衛門」と改め、はやばやと隠居する(当時、40歳は「初老」であった)。1758年(宝暦8年)頃から「動植綵絵」を描き始め、翌59年10月、鹿苑寺大書院障壁画を制作、1764年(明和2年)、枡屋の跡取りにしようと考えていた末弟・宗寂が死去した年、「動植綵絵」(全30幅のうちの)24幅と「釈迦三尊図」3幅を相国寺に寄進する。このとき若冲は死後のことを考えて、屋敷一箇所を高倉四条上ル問屋町に譲渡し、その代わり、問屋町が若冲の命日に供養料として青銅3貫文を相国寺に納めるよう契約した」とある。
「ウイキペディア」は、その後、「町年寄若冲の活躍―錦市場をめぐって―」として、この一件を大きく取り上げている。 それは、「隠居後の若冲は、作画三昧の日々を送っていたと見るのが長年の定説であった。ところが、1771年(明和8年)、枡屋があった中魚町の隣にある帯屋町の町年寄を勤めるなど、隠居後も町政に関わりを持っており、更に錦高倉市場の危機に際して市場再開に奔走していた事が分かった。」と始まり、最終的に1774年(安永4年)に解決するまで、「確実にこの時期に描かれたことが解る作品は殆ど無い」とした。
澤田瞳子さんの『若冲』に戻ろう。 お志乃が、三兄の新三郎の見舞いに行った時、当主の次兄・幸之助が二人だけになって、縁談の相談を持ち掛けた。 相手は五条問屋町の明石屋半次郎、同業、年は三十、後妻を探しているという。 五条問屋町は天正年間に開設された常設蔬菜市場の一つ。 錦魚市場に付属する形で発生した錦高倉市場より歴史が古く、奉行所から得た定札を楯に、独自の株制度を敷いていた。 明石屋は、代々町年寄を仰せつかるほどのお店だという。 お志乃は、縁づく気など、さらさらない、と答えた。
『動植綵絵』を相国寺に寄進して六年が経った。 師走の二十日、若冲のところに、内裏の口向役人(勘定方)の関目貢が訪ねてきて、明年二月末期日の二曲一双の屏風絵を頼みたいと言う。 若冲が、いま仕事が詰んでいるので、四条麩屋町の円山応挙に頼んだらというと、関目は今回は少々違った趣向の絵を望んでいるので、こうなると若冲の贋作作りを得意としている市川君圭に頼むしかないか、と言う。 若冲は、頭をがつんと殴られた気がした、(弁蔵……あいつ、京にいてたんか)。
関目を弟子の若演に見送らせると、血相を変えたお志乃が飛び込んで来た。 鉄漿(かね)に光る歯をのぞかせ、「あ、兄さん、大変どす。うちの人がえらいことを……」と、堰を切ったように泣き伏した。 明石屋半次郎を筆頭とする五条問屋町の店々が、東奉行所に官許を持たぬ錦高倉市場の営業差し止めを求める願い書を提出したのだ。 認可を受けた際の書き付けは、六十年前の宝永の火事で焼失していて、証拠がない。
噂が広がると、錦市場の客足は激減、悲観的な気配が西魚屋町・中魚屋町・貝屋町・帯屋町の四町に漂い始めた。 沢治屋伝兵衛が茂右衛門に帯屋町の町年寄になってくれと頼みに来た。 相手は禁裏や大寺御用の威光を笠に着て、ありとあらゆる所に布石を打っている。 それに対抗するには、相国寺などの寺社仏閣に縁故のある絵師伊藤若冲の協力が必要だというのだった。 別に、明石屋半次郎が、四町を裏切れば錦市場がなくなった後も枡源だけは商売できるようにしようと言って来たのは、断然拒絶、お志乃はこのままこっちに引き取ると言い渡す。 しかし、茂右衛門が町年寄を引き受けて、町役たちと連日鳩首しても、良策は何一つ浮かんでこない。
盆を過ぎ、神経をすり減らしたのか、茂右衛門は三貫目も痩せ、若演に言われて源洲に診てもらうと、ただの疲労、心労との結論だった。 源洲が引き合わせたい人がいるという。 源洲は河内樟葉村の出、そこの郷士の次男坊が江戸で幕府財政を一手に掌握する勘定所の下役、勘定役になっている。 幕領の租税徴収や訴訟など多くの事業に携わる彼らは、この国の根幹を支える有能な官吏であった。 ことに三年前に老中役となった相良城主・田沼意次は、悪化する財政を立て直すべく、多くの勘定役を重用、彼らの献案を元に、株仲間の奨励や拝借金制限など数々の改革を断行している。 近年は全国の年貢米が集まる大坂の商人相手に、大鉈を振るっているそうだ。 源洲の知っている中井清太夫、三十一歳も、そんな老中の意を受けて来坂しているだろう。 姪が嫁いでいるので、時折京にも来る、一度相談だけでもしてはどうか、というのだった。 源洲の提案を、沢治屋伝兵衛ら町役に伝えると、さっそく頼みたいということになる。
若冲、池大雅に連れられ、裏松光世の蟄居先へ ― 2025/07/07 07:02
四代目枡屋源左衛門が弟の幸之助に家督を譲り、本宅にほど近い帯屋町の別墅を隠居所に定め、名も茂右衛門(もえもん)と改め、描絵三昧の日々を送って、四年になった。 大典和尚の後押しもあって、近年、茂右衛門こと伊藤若冲なる画人の名は、京の内外に広まりつつある。 池大雅、通名・池野秋平(しゅうへい)は文人画を得意とし、書家としても名高い、名だたる知僧や学者から絶大な人気を博する絵師である。 だが、生来のきさくな気性ゆえか、大典和尚に引き合わされたのをきっかけに、月に一、二度は、茂右衛門の隠居所にやって来る。 お志乃と通いの小女以外、ほとんど人と関わらぬ茂右衛門にとって、いわば唯一、朋友と呼び得る人物であった。
今日は、「若冲はん、今、急ぎの仕事はおありですか、実はこれからちょっと、わたくしにご同行いただきたいんどすわ」と、外出嫌いの茂右衛門をひっぱり出した。 高倉通りをまっすぐに北上し、二条通を過ぎ、九条家の屋敷を望む界隈で、道を一本東に変えた。 行った先は、お内裏、元左少弁裏松光世が幽閉された蟄居先だった。 大雅は「いま京で評判の伊藤若冲はんをお連れしました。少弁さまがこないだ、会うてみたいと仰られてましたさかい」 「前から申しておるが、少弁さまと呼ぶのは止めい、こなた(自分)はもはやただの隠居じゃ。まあ、とにかく近う参れ」
大納言徳大寺公城(きんむら)を筆頭とする公家二十名に蟄居が命ぜられたのは、昨年の七月のことであった。 当今遐仁(とうぎんとおひと、桃園天皇)の近習であり、垂加流神道の学者である竹内式部の下で『日本書紀』や四書五経を学んでいた彼らは、これより前、尊王を旨とする師の学説に傾倒。 幕府が朝廷を管理する現状に不満を抱き、主上に竹内学説を進講するばかりか、軍学兵法の学習、果ては剣術の稽古まで内々に行っていた。 このようなことが幕府の耳に入っては、どんな疑いをかけられるか知れたものではない。 事態を憂えた関白の近衛内前(うちさき)は、竹内の追放を断行。 門下の公卿を悉く免官、謹慎に処し、一切の禍根を断ったのである。 後に「宝暦事件」と呼ばれる騒動だ。
裏松光世は大雅と茂右衛門に、一本の花鳥図の掛け軸を見せた。 背に氷を差しこまれるにも似た衝撃が、茂右衛門の全身を貫いた。 「これは……若冲はんの鴛鴦図どすか」と、大雅。 なるほど絵の構図は、茂右衛門がたびたび描く雪中鴛鴦図に瓜二つ。 筆運びも酷似し、画面の左中央には彼が数年前から愛用する「若冲居士」印が捺されている。 しかし……。 「ち、違います。これはわしの絵やありまへん」 茂右衛門は、光世の御前であることも忘れて叫んだ。
一幅の彩色画を描くにも、茂右衛門は一壺五両、十両という高価な顔料を惜しげなく用いる。 だからこそ完成した作は、万人が眼を見張る鮮やかな彩色画となるのだが、そんな顔料は並みの町絵描きがおいそれと手を出せるものではない。 そして目の前の鴛鴦図は全体に色調が暗く、「若冲」独特の溢れるばかりの鮮やかさに欠けていた。
裏松光世は、「壺中屋の主によれば、これは店に長年出入りする偽物描きの弟子の作。近年めきめき腕を上げてきたのはよいが、どれだけ文句を言うても若冲の作を好んで描く変わり者だそうな」「――のう、若冲。そもじはこの絵師に、何か恨みを買うておるのではないか」。 その瞬間、冷え切っていた茂右衛門の背にかっと熱いものが走った。 こちらを凝視する焔(ほのお)の如き眼差しが、ふたたび脳裏によみがえった。 「まさか……」 いや、間違いない。弁蔵だ。ここまで自分の絵に迫ろうとする者が、他にいるはずがない。
伊藤若冲と、その時代 ― 2025/07/04 06:56
1745年延享2年、徳川家重が第9代将軍となる。 延享は5年までで、1748年桃園天皇の即位で寛延と改元。 寛延は4年までで、1751年徳川吉宗死去で宝暦と改元。 宝暦8年宝暦事件(尊王論者の竹内式部の追放)。
1760年宝暦8年、徳川家治が第10代将軍となる。 宝暦は14年までで、1764年後桜町天皇の即位で、明和と改元。 明和4(1767)年田沼意次側用人となる。 明和は9年までで、後桃園天皇即位と続いて起こった火事風水害で「明和9年・迷惑年」とされ、1772年安永と改元。 この年、田沼意次老中となる。 安永3(1774)年、杉田玄白『解体新書』。 安永5(1776)年、平賀源内エレキテル(静電気発生装置)を復元。 安永は10年までで、1781年光格天皇の即位で天明と改元。 天明3(1783)年、浅間山噴火。 天明5(1785)年、蝦夷地調査隊を派遣。
天明7(1787)年、徳川家斉が第11代将軍となる。 天明は9年までで、1789年内裏炎上(天明8(1788)年)などの災異により寛政と改元。 寛政4(1792)年、尊号事件(朝廷と幕府の間での尊号問題)。 寛政は13年までで、1801年享和と改元。
澤田瞳子さんの『若冲』には、池大雅、与謝蕪村、丸山応挙、谷文晁などの画家、裏松光世、相国寺第百十三世住持大典顕常、木村蒹葭堂(坪井屋吉右衛門)、さらには田沼意次、松平定信、中井清太夫などが登場する。
伊藤若冲 1716(正徳6)年~1800(寛政12)年
池大雅 1723~1776
与謝蕪村 1716~1783
丸山応挙 1733~1795
谷文晁 1763~1840
裏松光世 1736~1804
大典顕常 1719~1801
木村蒹葭堂 1736~1802
田沼意次 1716~1788
松平定信 1758~1829
中井清太夫 1732~1795
そして、大河ドラマ『べらぼう』の蔦谷重三郎も、同時代人である。
蔦谷重三郎 1750~1797
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