第四帖「夕顔の巻」入門2008/05/01 07:20

 『徒然王子』の時代は、いつだろうか。 気にしていたら、きのうの第100 回に、これは「王族の都落ち」だという話が出てきて、光源氏も「流され王子」 だった、テツヒトの祖父はアメリカとの戦争の最中、まだ小学生で、空襲の危 険から逃れるため、田舎を転々とする避難生活を送っていた、とあった。

 「流されても優雅だった」(須磨に←最近知った)という光源氏だが、『図書』 5月号で「源氏物語の深さと美しさ」なる一文が目にとまった。 書いたのは 藤原克己(東京大学・国文学)さん。 これで、惟光が光源氏の乳母(めのと) の息子だと、わかった。 夏の日の夕方、光源氏が六条あたりに住む女のとこ ろに忍んで通う途中、五条に住む乳母が老いて重くわずらっているのを、見舞 ったのが第四帖「夕顔の巻」の発端だった。 門が閉まっているので、息子の 惟光を呼ばせて待っている間、牛車の中から庶民の小家がひしめく界隈を見て いると、かたわらに板葺き屋根の庶民的な家ながら「簾などもいと白う涼しげ」 で、その簾に女たちの透影(すきかげ)があまた見えて心惹かれるような家が あった。 この家に夕顔の女君が身を寄せていて、無二の従者・惟光の活動が 始まるわけだ。

 光源氏と夕顔の君は、互にその名も明かさぬまま、逢瀬を重ねる。 藤原克 己さんは、こう書く。 「しかも女は「ひたぶるに若びたるものから、まだ世 も知らぬにもあらず」と語られている。この「世」は男女の中の意で、女は少 女のように純真でありながら、男の受け入れ方を知らないわけではなかった、 というのである。そのような女に、源氏は現実のくびきから解放されたような 愛と官能の陶酔を味わった」

 八月十五夜の翌日、某(なにがし)の院という古い荒れ寂れた屋敷に女を連 れ出したところ、そうした古宅に棲み付いている「もののけ」に、女はあっけ なく取り殺されてしまう。 死んだあとで夕顔は、父の死後零落していた三位 の中将の娘だったことがわかる。 女の無残な死に方は、愛と官能の陶酔がこ の世では許されないものであることを思い知らせるかのようではあるけれど、 陶酔への抑えがたいあこがれ、反社会的な暗い衝動を捉えたところも、『源氏物 語』の深さと言ってよい、と藤原克己さんは書いている。

わか馬の「六尺棒」2008/05/02 06:51

 30日は、4月13日に並んで(4月22日の日記)手に入れたTBS落語研究 会41年目の初回だった。 数えて第478回、三宅坂の国立小劇場。

 「六尺棒」          鈴々舎 わか馬

 「風呂敷」          三遊亭 歌武蔵

 「胴乱の幸助」        桂 小米朝

          仲入

 「芋俵」           林家 正蔵

 黒田絵美子作「干しガキ」   柳家 さん喬

 鈴々舎わか馬、出囃子が何と「スーダラ節」。 噺家らしいすっきりとした顔 かたち、ベテラン風だが33歳、平成9年鈴々舎馬桜の門に入り、12年6月二 ッ目、18年から鈴々舎馬風門下に移門(あまり聞いた事のない言葉)したとい う。

 三道楽のマクラをふって始めたが、だらだらとつまらぬ話をして、すぐ汗を かく。 落語協会の紹介ビデオを見たら、マクラが苦手だと話していた。  「六尺棒」、道楽息子の名を「あた・くし、さん」、親父を「あた・しーさん」 かと、聞き返すのが、新工夫か。 相談もなく22年前に、この世に生み出さ れたのが、人権蹂躙で、世界中で暴動が起きる。 親父は金を貯めるだけ貯め て使わないから、日本経済は停滞する、と。 この噺、前段で親父に言われた ことを、後半息子がやり返すのが聴かせどころなのだが、面白くなかったのは、 親父と息子の語り分け(描き分け)が、きっちり出来ていなかったからではな いだろうか。

歌武蔵の「風呂敷」2008/05/03 06:31

 30日は暑い日だった。 三遊亭歌武蔵は、ご存知元相撲取、でかくて太って いる。 2月の15,6日から初夏で、もうとっくに夏だ、という。 信号で待っ ているだけで、汗をかく。 それでオーデコロンを、一本。 飲むんです。 あ とで出た正蔵が、人の入った「芋俵」をかつぐところで、「重てえな」「歌武蔵 じゃあねえだろうな」と演って、受けていた。

 歌武蔵には、いつも厳しいことを書くけれど、出てきて毎度同じことを言う のは、いい加減によしたほうがいい。 もう、看板になったのだ。 特にこの 会など、何度も出て、どういう客が聴いているのか、承知していなければなる まい。

 縁、という話から「風呂敷」に入る。 夫婦の縁というのは不思議。 相手に「東チモールの人」まで出した。 夫婦喧嘩で、かみさんが出て行こうとし て「ひとのシャツ着てるんだから、返せ」、「お前だって、オレの猿股、穿いて やがって」

 やきもち焼の亭主を持ったおかみさんが、兄(にい)さん、お願いします、 と頼みに来る。 説教は「女、三階に家なし」に始まり、「貞女屏風にまみえず」 がドドイツで、「じかに冠をかぶらず、おでんに靴を履かず」 早くは帰ってこ ないはずの亭主がへべれけで帰ってきて、町内の新さんを隠した三尺の押入れ の前にどっかりと座る。 もう、牛の人、あまり早いから、もう寝ましょうよ。  歌武蔵が、あのデカイ顔で、鼻にかかった声を出す、ところがスゴイ。 一緒 になった当座にはよかったが、ワリバシを頭につっと挿して、肩や背中にトク ホンべたべた貼って、もう寝ましょうよ、はないだろう、と亭主。

 隣にいた仲間が、「歌武蔵、うまくなったね」と、言った。 私があまり感心 しなかったのは、先入観があるからだろうか。 座布団返しに出た前座が、床 に飛んだ汗を拭いていた。

秋、米団治を襲名する小米朝2008/05/04 07:06

 小米朝が落語研究会に来るのは、楽しみになった。 かつての枝雀や吉朝のように。 面白くて、上手い。 ベッカム頭で、ニコニコと出て来た。 上方 の人しか着ない派手な薄紫の羽織(藤色というのか)、小紋みたいに、やや濃い 同色の水玉が模様になっている。 目のまわりがくぼんで、耳たぶが大きいと ころは、やはり人間国宝に似ている。 上方でも一味違うポジションにいると、 例によって自ら「御曹司」「アホボン丸出し」と名乗る。 秋には、桂米団治を襲 名するそうだ。 きっかけは、ざこば(兄さん、という)が左手を振って言っ てくれた、東京では正蔵や三平が賑やかに誕生したのに「ウチの一門は葬式ば かり」と。 米朝は、まだ生きてる。 米団治は、米朝のさらに師匠の名前、 それが五十数年空いていた。 米朝は、四十、五十でどうかといわれ、まだま だといっているうちに六十、もう遅いとなって、継がなかった。

 京都、大阪、神戸の三つを合わせて上方。 上方といっても、実質経済は下 方で、橋下知事は苦労している。 大阪と京都は、のぞみで13分だけれど、 すごく違う。 京都は大阪をバカにしていて、京都とあとの関西、と思ってい る。 羽織を脱いで、明治初年、と「胴乱の幸助」に入った。 後半、けんか の仲裁が道楽の、大阪横町(よこまち)の割木屋のおやッさん、幸助さんは京 都の柳の馬場押小路へ、汽車で行かずに、三十石船で行く。 『続 米朝上方落 語選』(立風書房)の解説で、米朝は京都大阪間に鉄道が開通したのは明治10 年2月、三十石船の廃止がいつかはっきりしないので、明治10年から明治13,4 年にできた噺だろうという。

 筋はその本を読んでもらうとして、若干の用語解説。 割木屋は薪屋、煮売 屋で生節(なまぶし)を仰山買うて犬にやる、つぶれる「でんぼ」は腫れ物(米 朝は「できもん」でやっている)、去(い)にしなになんか折りでもこしらえて …。 小米朝の「好きこそものの浄瑠璃なれ」というのは、米朝にはなかった。

正蔵の「芋俵」2008/05/05 08:21

 正蔵は、ひょい、ひょいと、出て来た。 小米朝のようないい男に生まれた かった、と。 大阪の池田で、米朝や小米朝といっしょの会に出た話をした。  米朝には陽炎のようなオーラがある、本当に震えている、と。 人間国宝が泥 棒噺の「三ぼう」のマクラを降り始めた。 だが、どろぼう、つんぼう、とや って、次が出て来ない。 楽屋はみんな、けちんぼう、けちんぼう、と言って くれ、と祈るようだった。 人間国宝は、びんぼう、と言った。 そう語る正 蔵の顔、特に目のあたりがおやじさんに似てきたな、と思った。

 「芋俵」という噺は、泥棒が悪巧みをする、そのあくどさや、狙われる金持 の問屋の豪勢さが強調されるように、憶えていた。 正蔵のは、人柄が出るの か、その辺がほんわかしていて、最後の間抜けな部分だけの噺のような印象に なった。 正蔵はトリの前のポジションらしく「芋俵」という軽い噺を選び、 それらしく演じたのかもしれぬ。 去年の3月にトリの小三治の前に「ぞろぞ ろ」を演った時と同じように。