上士と下士<等々力短信 第1013号 2010.7.25.>2010/07/25 05:49

 大河ドラマ『龍馬伝』、初めの頃、福山雅治がなかなかいい、「タフじゃなく ては生きていけない。やさしくなくては、生きている資格はない」(生島治郎訳) というフィリップ・マーロウのセリフのような新しい龍馬像の提示も、十分に 納得できる、と褒めた。 印象に残ったのは、上士が通ると下士は土下座しな ければならない土佐藩の徹底的な身分差だった。 やがて土佐勤王党に結集し た下士たちは、山内一豊入国前の領主長宗我部氏の家臣だったということがわ かってくる。 武市半平太は、例外的に上士に引き立てられ、結果、切腹を許 される。 このところ、山内容堂と武市の関係にこだわり過ぎて、なかなか土 佐を出られず、「ちんたら」した感じになってしまった。 第三部、慶應元(1865) 年、長崎からの激動の三年間、龍馬の龍馬らしい活躍が期待される。

 「門閥制度は親の敵(かたき)でござる」と書いた福沢諭吉に「旧藩情」と いう一編がある。 明治10(1877)年5月、西南戦争の最中に書かれ、長く 筐底に秘められていた。 中津奥平藩の実情を詳細に記録したものである。 旧 中津藩の士族はおよそ1,500名、上士と下士の二大階級に分かれていた。 上 士は、大臣以下、儒者、医師、小姓組にいたるまで、下士は、祐筆、中小姓、 供小姓、小役人格から足軽帯刀にいたるまでが、属す。 上士下士それぞれの 間にも段階はあったが、上士と下士の間には超えがたい隔壁が横たわっていた。  下士はどんなに功績や才能があっても、上士へ昇進できず、まれに祐筆などか ら立身出世して小姓組に入った例がなくもなかったが、250年の治世の間に、3 ~5名に過ぎなかった。 小泉信三さんが『福沢諭吉』でまとめた、その隔壁 は(1)礼儀、応対、呼称、家屋の建て方。(2)上下絶えて通婚しないこと。(3) 禄高からくる貧富の差。(4)一方は経史や騎馬槍剣を学ぶのに対し、他方は算 筆を勉めるというように、教育が違う。(5)上士は概して生活に不自由しない のに、下士は内職によって足し扶持をする。(6)外出の服装、言語、宴席の模 様その他の風俗が違う。

 例外中の例外か、幕末は多少弛んでいたのか、福沢は人間諭吉を見込んだ上 士、江戸定府土岐太郎八の次女錦と結婚した。 清岡暎一さんが叔母で福沢の 四女タキさんに聞いた、こんな話がある(西川俊作・西澤直子編『ふだん着の 福澤諭吉』)。 錦さんが「お帰りなさいませ」と挨拶すると、福沢は「そんな に、お辞儀などしないでくれ」「かしこまって」と繰り返し、しまいには夫人が 根負けして、やめたという。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック