樋口商学部長の西川先生2010/08/01 06:02

 ついで、樋口美雄商学部長の話。 西川先生にはいつも、歴史と福沢につい ては話すな、と言われていた。 商学部の足取りと、西川先生について話す。  先生は1972年40歳の若さで商学部教授となり、98年に退職された。 巨人 軍とともに慶應が大好きで、数度にわたる商学部のカリキュラムの改定を担当、 商学部に問題が起こるたびにその後始末に当たられたことに対し、心の底から 御礼を申し上げたい。

 個人として、人間としては、修士課程の一年生で口頭試問を受け、余りの知 識のなさに驚き、これを読めと書籍を一冊渡されたことに始まる。 産業研究 所では、先生と辻村、小尾、尾崎の諸先生方から、科学としての経済学、仮説 をたてて検証することを教わった。 西川先生にはまた、政治経済学を教わり、 社会に役立つため、外に出なさいと言われた。 日本経済センターの研究員を し、統計研究会で他流試合もした。 政策の現場で、経済学を何とか応用した い、学問を社会の役に立てたいということを、いつも考えておられた。

 面倒見がいい。 書いたものを届けると、次の日までに読んでくれて、赤い ボールペンで、「てにをは」まで直し、二、三倍になって返ってくる。 30代 の半ばまで、そんな状態だった。 一見、恐い先生で、今でも恐い。 山形に 調査旅行にご一緒したことがあるが、礼儀・ふるまいから教わった。 一緒に 球場へ巨人の応援に行っても、正しく応援しなければならない。 学問の師と いうより、人生の師だった。 個人的な悩みを相談すると、自分で決めろとは 言われるが、必ず自分だったらこうするよ、という意見を言って、背中を押し てくれた。 こうやれば大丈夫という道を示してくれた。 先生から受けた御 恩を、後輩たちに伝えていきたい。 そう思っている人は、ここに沢山いるは ずだ。

篠塚英子人事官の西川先生2010/08/02 07:05

 私は篠塚英子さんという方も、人事院人事官というポストも、知らなかった。  学年は一つ下、1965年に武蔵大学経済学部を出て、民間の社団法人日本経済研 究センターに入り、企業モデルを研究している時、西川先生に出会った。 西 川先生は、節目節目で、いいコメントを下さる方で、常勤、非常勤の区別なく、 公平でニュートラルに、丁寧に誠意をもって接して下さった。 先生を慕う計 量グループの会合は、今でも続いている。 その後、先生に導かれて労働経済 学分野へ、オイルショック以降の労働問題を研究、『日本の女子労働』を著した。 

先生に外に出ることを勧められ、経済企画庁その他官庁の機関や審議会、学 者のネットワークの現場を経験する。 1992年、お茶の水大学に助教授として 招聘されたが、西川先生は私学から国立大学へ入るのは、めったにない人事と 祝ってくれた(中村、西川両先生のおかげ)。 お茶の水では、家政学部で女性 問題、フェニミズム、ジェンダー学を研究したが、西川先生に教えられた福沢 の日本婦人論その他関連の著作が役立った。 1998年、大学に居ながら、日銀 の政策委員会審議委員になる。 西川先生は、これはもっとすごい、女性で、 東大出でもない人が、と。 2000年には、慶應義塾大学から商学博士を西川先 生の指導で授与された。 昨2009年4月、人事院人事官になった。 天皇の 認証式がある。 福沢の『帝室論』について西川先生にメールでお尋ねしたら、 全集の五巻にある、六巻には『尊王論』があると、教えて下さった。 質問す ると、必ず適切な答が返ってきた。

 言葉を大切にする方で、気っ風のいいのは、福沢先生の気持が、その文体に うつっている。 福沢の亡くなった日、一人の市井の婦人が、手向けの花を持 って訪れ、ひとり静かに弔ったという逸話が残っている。 西川先生を慕う計 量グループの皆さんも同じ気持だ。 西川先生の最後のご様子をお聞きしたく て、オフィス西川に秘書の石部祥子さんを訪ねた。 先生は最後の最後まで、遣り残していったご研究の作業をなさったと聞いて、心穏やかになった。 石 部さんには、ぜひその話をしていただきたい。

石部秘書「西川先生最後の一年」2010/08/03 06:55

 西川俊作先生が38歳の時から、39年間秘書を務めた石部祥子さんが、「西川 先生最後の一年」という報告をした。 先生は1998年の教授退任の直前に、 心臓が悪くなり、四つの弁の内、二つの具合が悪かった。 加えて煙草が原因 の肺気腫になり、酸素ボンベと共に出勤していた。 2009年4月、清家新塾長 の誕生を喜び、且つ心配する。 続いての樋口新学部長についても同様。 5 月初め、三田のオフィス西川の賃貸契約を更改、2年後の『防長風土注進案』 論文の上梓を期す。(『三田評論』4月号、速水融さんの「西川俊作さんを思う」 によると、『注進案』は幕末期に編纂された長州藩の記録で、経済調査としては 日本で最高の資料。これを経済学的に分析すれば、当時の地方経済の状態が日 本で最も明確になる。) 6月6日、心臓病が悪化、意識を失い、危篤状態が続 いたが、3日間人工呼吸器を着け、強制睡眠したのが効を奏し、緊急入院した 千葉西病院から10日で主治医のいる済生会中央病院へ転院できた。

 しかし『注進案』論文は「畢生の大作」を「小作」に変更の決断をする。 7 月15日に退院、回復傾向になり、体重も増えてくる。 9月14日、産業研究 所設立50周年会合、自宅にて会場と電話で懇談。 最初は「ふん」と言って いたが、30分前から玄関階段横のアナログ電話の前に待機、早見均所長の厚意 を喜ぶ。 11月は週1~2日(火・金)、オフィス西川に出勤(石部さん往復同 伴、酸素ボンベも)、12月は『注進案』論文の完成急ぎ、書き続ける。 26日、 速水融先生文化勲章受章祝賀会に出席、五分間の祝辞を述べ、旧交を暖める。  80名の出席者、知らない人は誰もいないと言う。

 2010年1月初め、年賀状書き、300枚印刷のうち100枚ほど投函。 1月 26日、今年初の出勤(電車で)、『注進案』日用挊(かせぎ?)のある村の数を 調べたいといい、数えて満足する。 帰途3時過ぎ、たまたま東館前で速水先 生と出会い、軽い冗談を交わす。 タクシーで帰宅、珍しく浅草橋まで石部さ んに同乗を請う。 27日、午前3時頃、不調を訴え鎌ヶ谷総合病院へ。 救急 車を待つ間、ご家族のように付き合っていたご夫婦に自ら連絡、4時に出る。  病院に着いた時には意識なく、6時59分心不全で急逝される。 1月30日、 市川斎場で告別式、親族、ごく親しい知人3名と石部さんのみ参列。 戒名、 読経無し。 3月13日、市川市営霊園に納骨。

 7、8割方出来上がっているという『防長風土注進案』論文の、資料、ダンボ ール10箱は、速水研究室に移され、『1840年、長州経済の見取り図』(仮題) としてまとめられることになっているそうだ。

「西川先生最後の一年」と私2010/08/04 07:10

 石部祥子さんの「西川先生最後の一年」を聴いて、わかったのだが、この大 変な一年に、私はそんな先生にいろいろご負担をかけていたのだった。 昨年 5月の時点で、7月4日の「等々力短信千号の会」のアンケートに、出席とメ ッセージを寄せていただける旨のご返事を頂戴していた。 5月30日の福澤諭 吉協会の土曜セミナーでお会いして、お礼を言うと、酸素ボンベを指して、体 調次第でというお話だった。 6月14日、小尾ゼミOB会の紫陽花ゼミで清家 新塾長の講演を聴いた時も、小尾先生の奥様に西川先生も出て下さるそうでと、 報告した。 21日、石部祥子さんから初めてメールが来て、先生は入院中だが、 本を一冊私の「大宮の自宅」宛に送りたいとおっしゃっているので、住所を知 らせてくれないかという。 不思議に思って問い合わせ、「馬場宏二先生」の間 違いとわかったが、ご入院中と判明したので、あらためて石部さんにお訊きし て、7月4日の会は残念ながら欠席ということになった。 別に、幹事役のと ころへ、お祝いの為替証書を頂戴して、恐縮したことであった。

 ご退院後、8月1日付のお手紙を頂いた。 「医者のくれた病名は、急性心 不全とかで先月半ばまで四十日間ほど入院しておりました。帰宅して二週間余 経ちましたが、もっぱら屋内で、ぶらぶらしております。」 私のお送りした等々 力短信のリスト「1000号の歩み」、メッセージ集「千号によせて」を読んで下 さり、なんと「なにも出来ずでは申し訳なく、「1000号の歩み」を拝見し、福 沢がらみの短信の数をかぞえてみましたら、47点になりました。しかし、カウ ントするか否か迷ったものもありますので、約5%がそうであったことになり ます。随分沢山になり、驚いています。小尾先生のお耳に入れたら、どんな憎 まれ口を仰言ったでしょうか?」と、先生らしく数をかぞえてくださったので あった。 驚いた私も、数えてみたら、117点もあって10%を超え、西川先生 の点が辛いことと、自分は自身に甘いことがわかり、その旨の礼状を書いた。

 今年1月、「300枚印刷のうち100枚ほど投函」されたという年賀状、私も 添え書きのある一枚を頂戴していた。 それなのに、2月4日の慶應義塾から の新聞発表を見落していたのだ。

池井戸潤著『鉄の骨』を読む2010/08/05 07:08

 書評を読んだからなのだろうが、何で読みたいと思ったのか、忘れてしまっ た。 買うほどの本ではないと思い、図書館に予約した。 それから半年ぐら い経ったか、忘れた頃に、順番が来た。 池井戸潤著『鉄の骨』(講談社)であ る。 ちょうどNHKが小池徹平主演の連続テレビドラマにして放送している 最中だった。 テレビは見なかった。

 談合の話である。 富島平太は、大学を卒業して中堅ゼネコン一松組に入り、 現場を三年経験したところで、本社の業務課(談合課)に転勤になる。 大学 のテニスサークルで一緒だったガールフレンドの野村萌(25)は、一松組のメ ーンバンクの白水銀行にいる。 四年越しの付き合いだ。 萌は、支店の融資 課のエリート園田俊一(29)から、担当している一松組の業績や資金繰りの厳 しいことを聞いている。 平太とは居酒屋で焼酎だが、園田とはレストランや バーでワインを飲む。 確信は持てないながら、平太がサラリーマンとして、 業務命令なら談合もせざるを得ない、必要悪だと言い、「お前だって、金持ちの 年寄りにうまいこといって投資信託とかなんとか売ってるじゃんか」などと言 うものだから、二人の気持は離れて行く。 萌の気持は、園田に傾いてゆく。

 一松組の業務課は尾形常務の直轄、その尾形にダービーに誘われた平太は、 東京競馬場の貴賓室で三橋萬造という同郷佐久の男を紹介される。 三橋は大 手ゼネコン山崎組の顧問で、天皇とよばれる調整(談合)のまとめ役だった。  三橋の妻は、旧建設省のドンから民政党の政治家に転身した道路族の大物、城 山和彦の妹だ。 大手ゼネコンの役員クラスを招いて三橋が自宅で催す茶事に、 常務は平太を一松組の代表として送り込む。

 三橋は平太を可愛がり、「サラリーマンは部品だが、単なる部品じゃない。部 品といえるのは、仕事という目的に限っての話であって、同時に私たちは人間 だ。サラリーマンである以前に人間なんだ」、自分は「設計図にない部品の役割 を担ってきた」、自分が必要とされるのは「競争の底が割れたときさ」と言う。  「調整に失敗し、大手ゼネコンが倒産し、傘下や下請け企業が路頭に迷うと、 社会に与えるダメージは相当なものになるだろう。本当の制度改革が行われる とすれば、それからだ。日本という国は、一度痛い目に遭わないとわからない んだ」とも。