葛藤から「いけにえ」へ ― 2011/07/08 06:31
50年にわたる平野・岡本敏子の日記には、暗い心情、激しい憤りも書かれて いた。 母親かの子の太郎に対する強い影響、かの子のような小説を書きたい という思いは、随所で敏子に対抗意識を感じさせる。 太郎の他の女たちとの 浮気の問題もあった。 その点で、寂聴さん、作家瀬戸内晴美も当事者の一人 であった。 「かの子繚乱」を書くための取材で太郎を知り、「夏の終り」で女 流文学賞を得た瀬戸内は、輝いている時期であった。 「家に来ないか」と太 郎に言われたこともあったらしい。 敏子は自分の立場が壊れるかもしれない という不安を感じつつ、瀬戸内の助言も得て、私小説「ふたり」を書き始めて もいる。 どうやって、ふたりは結ばれたか、今まで日本にはない形で、岡本 太郎を結実させたか。
敏子は、恋人としてでなく、太郎のパートナーとして、秘書としての立場を 確立することに、方針を切り替えたかのように見える。 あらゆる多彩な挑戦 を太郎にさせることによって、自分の夢の実現をはかることに。 彫刻、キャ ラクター・デザインから、夜空にヘリコプターで絵を描くことまで、「彼に新し い火を付け、ここから新しい岡本太郎をつくるのよ、二人で」と。 太郎は二 科会を脱会、新作を描き始め、2か月後に個展を開く。 敏子は、色を指示し、 太郎の尻を叩いて、「彼は私の捧げたいけにえ」と書いているという。
昭和37(1962)年12月17日の日記に、養子縁組の届を出した記述があった。 太郎が敏子を養女にしたのは、作品の散逸を防ぐためだったという。 妻の場 合、子供がいないと、兄弟などへ行ってしまう可能性がある。 父一平は再婚 し、太郎の弟妹?がいた。 「太郎さんなりの愛と感謝」と、敏子も素直に受 けたという。
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