梅若實と福沢の重なるところ2012/03/29 04:18

 前坊洋さんの研究は、梅若實の生活と思想に進む。 『梅若実日記』を丁寧 に読み込んで、贈答品の目録を作っている。 到来物の中に、明治4年「西洋 酒壱徳利」、5年「写真鏡」、6年「ギ(ヤ)マン入ノ時計」等があり、贈った物に は30年「能面ノコウヒイ吸ヲ六ツ」(コーヒーカップ、単位も5客でなく半ダ ース)、31年「ヱビスビール一ダース切手」などと、明治30年頃から西欧化し た生活に革新している様子が見られる。 38年に至ると、岩崎弥之助からの「水 枕ニ電気風車」(扇風機)、「仏蘭西葡萄酒五」の到来など一段と豊かな物が見ら れる。

 明治34年7月9日の日記には、フェノロサが来訪して、話をした記事があ る。 その日の後半には「能楽ハ日本国ニテ出来タル物ニテ他国より来リシ物 ニアラズ」とある。 明治39年4月2日の日記には、1日の中央新聞に載った フランス人ベ(ペ←新聞)リー氏の能楽談「日本ノ能ハ外国ニ比類なク二千三百 年前ニギリシヤ国ニ似タル芸術アリ」を受け、「能ハ無類の芸術 又文章 詩の 形式。 日本ニモ他ニなし」(字の間隔は、武蔵野大学能楽資料センター所蔵の 日記原本のコピーによる)とある。 フェノロサとの文化接触でナショナリズム の考え方が確立し、「能楽は芸術である」と確信していたことがわかる。

 次に前坊洋さんは、梅若實のサポーターのリストを挙げる。 全部で120人 の内、東京在住99人、横浜21人。 東京99人の内、電話を持っている人が 60人。 明治37・8年に、電話の普及率は38軒に1台だった。 岩崎、三井 を始めとする新興上流階級がコアなサポーターであったことが分かり、彼らが 梅若實に新しい文化や情報をもたらし、新しい思想に目覚めるのに関わってい たと思われる。 その人々は、福沢周辺の人物に重なるのだ。

 明治29年、福沢は宴会醜態論を連発した。 芸者が弾く三味線の音楽や、 それにつながる歌舞伎を低く見た。 それと、能楽は区別する、「気品」の強調。  その年11月1日の慶應義塾懐旧会での「気品の泉源、智徳の模範」演説の「気 品」に通じるものである。

 こう見て来ると、梅若實と福沢諭吉は、その生活も、人脈も、思想も、重な るところがあったことになる。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック