「酒田(さがだ)さ行(え)ぐさげ達者(まめ)でろちゃ」2016/03/26 06:34

 宇江佐真理さんの本の表題作「酒田さ行ぐさげ」を懐かしいと書いたのは、 酒田は鶴岡の隣町で、遠い親戚に当る人もいて、子供の頃に行ったことがあっ たからだ。 庄内藩のお城は鶴岡にあったが、最上川の河口に位置する港町で ある酒田は、戦国時代から日本海沿岸の交通と経済の要地として、多くの豪商 を生んだ。 とりわけ本間家は小説のなかでも、酒田の出店の番頭になった権 助が「本間様は日の本一の大地主でござりやす。」「本間様は自前の船で早くか ら北前交易で財を成したお方でござりやす。酒田には本間様には及びもせぬが、 せめてなりたや殿様に、という俗謡があるほどでござりやす」と、日本橋北鞘 町の廻船問屋「網屋(あみや)」の主、藤右衛門に話した。 一番番頭の栄助は、 以前大坂の本店(ほんだな)に三年修業に行った時、権助と一緒で、その愚図 でのろま、ドジで要領の悪いのに、辟易したことがあった。 栄助は江戸に戻 り、権助は酒田に飛ばされてから十四年、栄助は無駄な掛かりを省き、船頭の 手間賃をぎりぎりに抑えるなど、売り上げに貢献し、網屋の親戚筋の娘を嫁に 迎えたこともあって、三年前網屋始まって以来の若い一番番頭に昇格していた。  権助も昨年、酒田で番頭になっていたが、今度は酒田の店の主になるという。  近頃の不景気で、本店が酒田の店を手放すことになり、権助がそれを買い取る のだ。 権助の女房の実家は、本間様の血筋だという。

 江戸へ夫婦で出てきた権助は、西河岸町の料理茶屋を旅籠代わりにしていて、 一晩栄助を招待する。 店の買い上げには、船もあるからざっと三千両かかっ たといい、酒田では本間様も有名だが、河村瑞賢を尊敬しているという。 栄 助は河村瑞賢を知らなかったので、訊く。 伊勢国の貧しい家に生れ、十三歳 で江戸に出た。 材木を商っていたが、二十六歳で喰い詰めて、大坂に行く決 心をした。 だが、品川の海辺で盂蘭盆の精霊流しの茄子や瓜が沢山打ち上げ られているのを見て、それを拾い、漬物屋をすることを思いつく。 その成功 が第一歩となり、ひょんなことから大名屋敷の普請現場に出入りする内、土木 の基礎を身につける。 転機になったのは明暦3(1657)年の振袖火事、瑞賢 は焦土と化した江戸を見た途端、木曾に飛んで木材を買い占め、巨利を博した。  この功績で一躍注目され、出羽国の天領米を江戸に廻漕するため、幕府から航 路の開発を命ぜられる。 これが後の北前船の西廻り、東廻り航路となった訳 だ。 その後、大坂の淀川の新航路、安治川の開削、大和川の付け替え工事に 尽力し、幕府から百五十俵取りの旗本の身分を与えられたという。

 権助は上機嫌で酒の杯を重ね、酒田の唄まで歌った。 ♪ヨーエーサノマガショ エンヤコラマーガセ エエヤ エーエヤ エーエ  エーエヤ エード ヨーエサマガショ エンヤコラマーガセ… (私は、この囃し言葉を聞いたことがあった。 親父が歌っていたのだろう か。 調べると、最上川舟歌だとわかった。 この囃し言葉の後、「酒田(さが だ)さ行(え)ぐさげ達者(まめ)でろちゃ」 ヨイトコラサノセー 「流行 風邪(はやりかぜ)などひかねよに」と続き、また最初の囃し言葉が入る。 「酒 田さ行ぐさげ」という題名が、ここから来ていることがわかった。)

権助は、栄助が大坂の手代に「愚図でのろまな権助と離れて仕事がしたい」 と洩らしたのを聞いて、衝撃を受けていた。 権助が酒田の出店に行ったのは 自分の意思で、そこで踏ん張ったのは、いつか栄助を見返すためだった。 権 助が目指していたのは、河村瑞賢じゃなくて、栄助だったのだ。 江戸へ来て 若くてきれいな妻を見せびらかして、金を湯水のように遣ったのも、そのため だった。 江戸の店主に、返す気のない百五十両を無心し、いくらかの祝儀を もらった。 「栄助さん、おい、酒田さ行ぐさげ」と、帰って行った。

酒田に帰った権助に、思わぬほどの不運が襲う。 西廻りの北前船が嵐で転 覆し、多大の損害が出た。 商売を立て直す間もなく、折からの西風に煽られ、 酒田は大火に見舞われた。 腑抜けになった権助に愛想を尽かした妻は、さっ さと実家に戻ってしまったという。