「花野」と「雨月」の句会 ― 2016/09/16 06:08
8日は『夏潮』渋谷句会だった。 前日朝の予報では台風13号が関東地方を 直撃するというので、中止にすることも考えたが、やがて雨中心で温帯低気圧 になると予報が変り、開催することにした。 兼題は「花野」と「雨月(うげ つ)」、私はつぎの七句を出した。 「雨月」は、陰暦八月十五日、仲秋の名月 が、雨で見えないことをいう。 難しい題だった。
霧晴れてやさしさたたふ花野かな
一本の花野の道をバイク行き
花野来てなぜかやさしい心持
ふるさとの花野をしのぶ媼かな
月の雨怖い話を語り合ふ
杉林闇の塊雨月かな
隣り合ふ舟ぼんやりと月の雨
私が選句したのは、つぎの七句。
浮雲の影すべりゆく花野かな なな
瞬く間青空消ゆる花野かな 淳子
房総の花野は海にのしかかり 耕一
供へ物座敷へ移し雨月かな さえ
雨月かな畳敷きなる中廊下 和子
未だ続く妻の小言と月の雨 明雀
雨戸閉め又開けてもみ雨の月 真智子
私の結果は、<杉林闇の塊雨月かな>を英主宰が、<隣り合ふ舟ぼんやりと 月の雨>を和子さん、ななさん、さえさん、淳子さん、明雀さんの5人が採っ てくれて、計6票。 二句だけだったが、主宰選があったし、一つの句を5人 も採ってくれたのは珍しく、まずまずという気持になった。 <杉林闇の塊雨 月かな>の主宰評…面白い句、感覚的、ざっくり、突然、詩情豊かな景。「雨月 なる闇の塊杉林」としたらどうか。
私の選句した句で、主宰選にもなった句の主宰評。 <浮雲の影すべりゆく 花野かな>…ポイントは「すべりゆく」、花野に傾斜がある、動詞の大切なこと を思わせる句。 <瞬く間青空消ゆる花野かな>…花野に夢中になっていたら、 青空がふっと消えた。 <雨月かな畳敷きなる中廊下>…人気のあった句、こ ういう句に票が入るのは信頼のおける句会、嬉しかった。お寺か何か、大きな 建物で、襖を開けると、両側が大きな広間になる。
父親の「ことば」その二 ― 2016/09/17 06:25
9月6日に書いた「父親が口にしていた「ことば」」だが、ほかにもいろいろ あり、7歳下の弟とメールのやりとりをして、彼が覚えているものもあった。 弟もまた、日曜日の朝、父親の蒲団にもぐりこんで、もろもろ聞かされていた のだった。
父は、若い時に広池千九郎の道徳科学(近年はモラロジーという)を学んだ ようで、私の子供の頃、家に古い道徳科学講座の本があった。 そこで仏教の 話も出てきたのだろうか、「無一物中無尽蔵」とか、「縁なき衆生は度し難し」 とか、よく言っていた。 宗派が曹洞宗だった関係もあるのか、曹洞宗の開祖、 道元禅師の『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)の『現成(げんじょう)公案』 を読んでみたが、難解でまったく歯が立たない、しかたがないので丸暗記をし たと言って、よく暗誦していた。 母が亡くなった時、山形県鶴岡市の禅龍寺 のご住職に東京三田の南台寺を紹介してもらった。 その両方のご住職に、そ の『現成公案』の丸暗記を披露してケムに巻いていたものだ。 私も「門前の 小僧、習わぬ経を読む」で、その一部を唱えられる。
「仏道を習うと言うは、自己を習う也。自己を習うと言うは、自己を忘るゝ なり。自己を忘るゝと言うは、万法に証せらるゝなり。万法に証せらるゝと言 うは、自己の身心及び他己の身心をして脱落せしむるなり。」
中央商業の漢文の先生が、ここでも登場する。 父はこう教わったというの だ。 和尚さん達に、こんな話をしていた。 紀元前463年だかの、4月8日、 お釈迦さまは、お生まれになったとたん、蓮の花の上におりたち、七歩歩いて、 右手を上げ、「天上天下唯我独尊」と、おっしゃったといわれている。 しかし、 お釈迦さまは「スラーメーラヤ・マッジャパーナーダ・シッカーパダム」と言 われた。 彼は、インドはカピラヴァストゥ国の人であったから…。
仏教話のほかに、インチキ英語もあった。 「キャベージ、マメランプヒッ クリケール、カジオコール。ジョウキポンプハシール、ミズカケール、ケール、 サンキュー。」 「太陽サンナイト夜」、「ひねるとジャー(蛇口)」、「押すとア ンデル(饅頭)」。 父は芝の白金志田町で育って、御田(みた)小学校に通い、 結局はその小学校が見える墓に眠ることになったのだが、子供の頃「ミスター ゴードン、アットホーム?」と言っていたという(弟の記憶では、伊皿子辺り の外国人の子供を呼びに行くとき)。 私の怪しい記憶では、ゴードンは牛乳屋 で、そこを訪ねてくる客の外人がそう言っていたと、聞いたように思う。
父は中央商業を出たあと、小さな貿易商社に勤めた。 そこでアルゼンチン と商売をして知ったという言葉「カシラデコレオ(Casilla de correo・私書箱) を、弟が覚えていた。
父親の「ことば」その三 ― 2016/09/18 07:33
「また始まった、おじいさんのカイコロ話」と、広瀬すずちゃんに言われそ うだが、その三である。 父は「文はここに至りて畢竟、人なり、人生なり」 という山形県鶴岡市の公園にある高山樗牛の碑の文句も話していた。 父は鶴 岡で生まれたが幼い時に、馬場の家の養子になって、芝白金志田町で育った。 母は父のことを悪く言う時、それを「志田町のあたりで這いずり回っていた」 と言っていた。 母がずいぶんストレートな言い方をしたものだと、時々家内 と一つ話にして笑う。
芝に育った、まあ江戸っ子だから、こんなのも教わった。 「市兵衛さん荷 をしょって秋刀魚のしものを五把買ってろくでもないもの質おいて恥かいてく そ踏んで飛び立った。」 「神田鍛冶町の角の乾物屋で勝ち栗買ったら硬くて噛 めないカカアにやったら蚊帳から出て来てカリカリ噛んじゃった。」 (お経の調子で) 「ぜんもんのぎーすーに るーさーがびきさん がーさり がーさった がーさりがーさりよーも るーあーに たーまーきんを ぎーに って がーさりがーさった。」
「にぎりっぺは三里臭い」という話もあった。 ある男が、「にぎりっぺは三 里臭い」という話を聞いて、本当かどうか試してみた。 ふんどしをずらすと、 ブッとやって、パッとつかんだ。 半里ほど行って、指を少し開いて嗅いでみ ると、臭いではないか。 また半里、計一里行って、嗅いでみると、まだ臭い。 さらに一里、都合二里行って、嗅いでみたら、まだまだ臭い。 ついに三里行 って、嗅いでみると、なるほど臭い。 やはり話は本当だったかと、手を開い てみると、本物を握っていた。
エンドレスのしりとり歌もあった。 「♪正直爺さんポチ連れて 敵は幾万 ありとても 桃から生まれた桃太郎 お月さん 何て間がいいんでしょう 正 直爺さんポチ連れて~」
中央商業の学生時代に歌っていた歌というのを、弟が記憶していた。 「♪ 橋~のぉ~上からぁビリ糞たれりゃ~、下のドジョウは~たまごとじ~、よー い、よーい、でっかんしょ。」「♪色は真っ白けーで、ギンニャモニャ、チュウ ショの生徒はねー・・・(真っ黒ケー・バージョンもあったような・・・)」
さらに「♪キプラカチャカポコ、ヨイショキタネ、ホラギンニャモニャ。」と いうのがあり、歌詞の「ギンニャモニャ」をネットで検索していたところ、熊 本民謡に、肥後キンニョムニョ節という唄があったという。 弟は、親父さん が小さい頃、清正公さまのお祭りで聞いたのかもというけれど、学生時代に親 戚で熊本から出て来て大学に通っている人と付き合いがあったから、その人に 習ったのかもしれない。
https://www.youtube.com/watch?v=JL2YPkTLh9Q 「肥後の駒げた キンニョムニョ 血だるま 大川 加藤清正 キンニョムニ ョ 毒饅頭 キクラカチャカポコ チョイトキナヨ」という唄だそうだ。
その人につながる縁で、熊本から一家でガラス工場に働きに来て、親類が増 え重要な働きをしてくれた人たちがいたり、寮を息子さんが大学に通う下宿に 提供したり、父が肥後椿を育てて自慢にしたりということもあった。
放送作家、作詞家としての永六輔さん ― 2016/09/19 06:29
永六輔さんと、大橋巨泉さんが亡くなった。 高校生の頃、ラジオ関東とい うラジオ局が出来て(昭和33(1958)年12月、現・アール・エフ・ラジオ日 本)、夜晩く『昨日のつづき』(昭和34(1959)年7月~)という番組をやっ ており、毎晩聴いていた。 「今日の話は昨日のつづき、今日のつづきはまた 明日」「出演は前田武彦、永六輔、大橋巨泉……それに私、富田恵子(女優。草 笛光子の妹)」、三人が勝手なおしゃべりをして、アシスタントで彩りの富田恵 子をちょっとからかう。 何も覚えていないけれど、ものの見方や考え方、ユ ーモアなどで、高校生の私はけっこう影響を受けたのだろうと思う。
それより前の子供の頃、NHKラジオに三木鶏郎の『日曜娯楽版』という番 組があった(昭和22(1947)年10月~昭和27(1952)年6月。4月28日に 日本はサンフランシスコ講和条約の発効で占領から独立)。 「冗談音楽」とい う歌(『僕は特急の機関士で』がヒット)の間に、風刺を含めたコントを連発し て、とても面白かった。 出演は、楠トシエ、中村メイ子、三木のり平、丹下 キヨ子、有島一郎、太宰久雄、小野田勇、千葉信男、河井坊茶など。 昭和8 (1933)年生れの永六輔さんは、番組開始の頃は中学生だったが常連投稿者と なり、高校時代には番組の構成作家になったという。 三木鶏郎の他の作家は、 キノトール、能見正比古、神吉拓郎、野坂昭如、飯沢匡、伊藤アキラなど。 作 曲家は、神津善行、いずみたく、桜井順ほか。 懐かしい名前ばかりだ。
テレビの時代になってから永六輔さんといえば、何といってもNHKの『夢 であいましょう』(昭和36(1961)年4月~昭和41(1966)年3月、末盛憲 彦プロデューサー)だろう。 渥美清とともに、ニヤニヤしながら、司会の中 嶋弘子にからむ永六輔さんの姿は今も目に浮ぶ。 永六輔作詞、中村八大作曲 の「今月の歌」は、「上を向いて歩こう」(坂本九)、「ブルージン・ブルース」 (弘田三枝子)、「遠くへ行きたい」(ジェリー藤尾)、「いつもの小道で」(田辺 靖雄)、「おさななじみ」(デューク・エイセス)、「今日は赤ちゃん」(梓みちよ)、 「ウェディング・ドレス」(九重佑三子)、「帰ろかな」(北島三郎)などのヒッ ト曲を生んだ。
永六輔さんのベストセラー『大往生』(岩波新書・1994年)に、中村八大さ んに作詞をするように言われるまで、永さんは詞を書いたことも、書こうと思 ったこともなかった、という話がある。 八大さんは芸大附属で天才ピアニス トと謳われたのに、芸大へ行かず早稲田に転校する。 音楽以外のことを学ぶ ためだった。 早稲田大学は八大さんにとって、音楽から一番遠い学校という 名誉ある選ばれ方をしたのである。 このことで早稲田中学から早稲田ッ子の 永さんが八大さんと出逢うことができたのだ。 永さんが八大さんに言われて 作詞をしたのは、BIG4の、人気絶頂のピアニストからの依頼を断る勇気がな かっただけである、という。
永六輔さんが旅で集めた言葉 ― 2016/09/20 06:23
永六輔さんは、民俗学者の宮本常一さんに言われた言葉を実践したという。 「ラジオは電波だ。 電波はどこへでも飛んでいく。 だから、君もどこへで も飛んで行って、スタジオでなく、電波が届いた先がどうなっているかを、見 聞きしなさい。 話を聞きなさい。 そして、それを持って帰って、スタジオ で話しなさい。」 そういえば、先日触れた佐渡について、「佐渡島独立運動」 というのがあった。 運動で有名なのは、メートル法の縛りがきついのに抵抗 して、鯨尺や曲尺、尺貫法の復権を唱えていたこと。 「天皇に着物を!市民 連合」「天着連」というのもあった。
永六輔さんがそうした旅暮らしで集めた言葉は、『無名人名語録』『普通人名 語録』『一般人名語録』(講談社)などという本になり、ベストセラー『大往生』 (岩波新書)につながる。 『大往生』の言葉から、いくつか。
「老い」について。 「人間、今が一番若いんだよ。明日より今日の方が若 いんだから。いつだって、その人にとって今が一番若いんだよ」
(下町の、さんざん道楽をした果ての頭(かしら)がしみじみと言った)「歳 をとったら女房の悪口を言っちゃいけません。ひたすら感謝する。これは愛情 じゃありません。生きる知恵です」
「日本では福祉予算も、叙勲も、勲章も申請しなければくれません。つまり、 欲しがった奴が貰えるんです」
☆この話とは別だが、知っている下町の職人が叙勲の知らせを受けた。 「ハ イ、ありがとうっていっちゃなんだから、私ごときがもったいないって、一応 は遠慮したんですよ。“それでも”っていったら、“それじゃ”っていただくつ もりが、最初の遠慮で役人が帰っちゃったんです。……わたし、本当はいただ きたいんですが、なんとかなりませんかね」
「死」について。 「こうやって同窓会の度に物故者の黙祷をするのはいい けれど……何人までやるか、決めておこうよ、一人で黙祷なんかいやだよ」
「お釈迦さまは安らかに大往生ですよね。大勢の弟子や、動物にも囲まれて ……。釈迦涅槃図って、あの絵はおだやかでいい絵です。 あんな死に方、い いなと思います。 比べちゃいけませんけどね、キリストの死に方は痛そうで ねェ」
「長生きしようってグループがありましてね。会員は年間一万円ずつ払うん です。別に何もなくて、ただ払い続けるだけ。 で、最後まで生き残った人が 全額もらえるんだって!」
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