「リベラル」とは? 安倍内閣は「保守」か? ― 2018/05/11 07:08
中島岳志さんは、次に「リベラル」について説明する。 「リベラル」とい う観念はヨーロッパで、カソリックとプロテスタントの宗教対立を乗り越えよ うとする営為の中から生まれた。 価値観の問題で争うことを避けるためには、 異なる他者への「寛容」の精神が重要だということになった。 この「寛容」 が「リベラル」の起源である。 自分とは相容れない価値観であっても、まず は相手の立場を認め、寛容になること、個人の価値観については、権力から介 入されず、自由が保障されていること。 この原則が「リベラル」の原点であ り、重要なポイントとなった。
「リベラル」の原理は、保守思想と極めて親和的である。 「保守」は懐疑 的な人間観を共有する。 この人間観は、ほかならぬ自分にも向けられる。 自 分の考えや主張は、完全なものではなく、間違いや事実誤認が含まれているか もしれない。 自分が見逃している視点や、もっといい解決策があるかもしれ ない。 すると当然、他者の声に耳を傾け、自己の見解に磨きをかけようとす る。 間違いがあれば修正し、少数者の主張に理があれば、その意見を取り入 れて合意形成をしようとする。 「保守」の懐疑主義は、他者との対話や寛容 を促す。
中島岳志さんは、ここで「日本を代表する保守思想家」とする西部邁(すす む)氏の『リベラルマインド 歴史の知恵に学び、時代の危機に耐える思想』(学 習研究社・1993年)を引く。 この時、西部は、小選挙区制導入によって政治 が「政党本位」となり、政治家諸個人のあいだにおける自由闊達な対話、討論 を土壌として生育するリベラリズムという精神の有機体、自由な政党の要件が 失われることを危惧していた。 西部が強調するのは「自己懐疑」の重要性だ。 保守思想が人間の不完全性の認識に依拠する以上、「私」は正しさを所有するこ とはできない。 そのため、平衡(バランス)を保つための規範や枠組みを「他 者との対話」と「歴史の知恵」(死者との対話)に求める。 そこに生じるのが 「リベラルマインド」だとして、これを重視する。 「保守」は、自らの正し さを根源的に懐疑するが故に、「リベラル」へと接近する。
ここで中島岳志さんは、現在の安倍内閣は「保守」に依拠しているといえる だろうかと、疑問を呈する。 安倍首相は国会での議論に消極的で、野党から の質問に正面から答えようとしない。 また、少数派の意見に真摯に耳を傾け ようとせず、多数の論理によって法案を推し進めようとする。 その結果、強 行採決が繰り返され、野党が臨時国会を要求しても応じない。 自民党内でも 闊達な議論は起こらず、上意下達の決定ばかりが目立つ。 中島さんは、安倍 内閣は極めて「パターナル」(父権的)な性質を持っているとし、四半世紀前に 西部が危惧したことが、現実化した存在と言えるだろう、安倍政治を「保守」 と見なすことはできない、とする。
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