「天皇がいて、いなかった」大正の5年間2021/04/24 07:02

保阪正康さんの朝日選書『陰謀の日本近現代史』(朝日新聞出版)を読んでいたら、「「天皇がいて、いなかった」大正の5年間」に着目していた。 近代日本史で、それまでの日本社会と異なる年代だというのだ。 大正10(1921)年11月から15(1926)年12月25日までである。 大正天皇が「朕久しきに亘るの疾患により大政を親らすること能はざるを以て」、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)を摂政に任じてからの5年間だ。

5年間の特異性のひとつは、軍事がまったく動いていないことだ。 1920年代は、第一次世界大戦の悲惨な体験が人類の歴史に深刻な反省を与えた国際協調の時代だった。 さらに大正デモクラシーの広がりによる人道主義的な考えが、社会に定着しつつあった。 それで軍事の評判が極めて悪い「軍人冬の時代」だったというのだ。 この時期、軍人の中の中堅幕僚たちは「国家総力戦構想」を思想としていた。 第一次世界大戦後、永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次、東條英機、石原莞爾らの軍内エリートはドイツに留学、密かに軍内に秘密結社のような勉強会をつくり、「長州閥打倒」「軍事政権の樹立」を決め、国民一人ひとりを戦争の歯車に組み込んでいくかが軍人の役目だと自覚し、この国は軍人の命によって守られていることを事あるごとに説いて、「冬の時代」をはねのけようとしていた。

その反動が昭和初期に表れる。 昭和初年代の青年将校による国家改造運動は、大体が20代後半から30代前半の世代による天皇神格化運動といってもよかった。 反軍事の動きに強い不安と憤りを持って、軍事大国への道は軍事が担ったのではないか、もともと軍人は天皇の軍隊に属する特別の存在だというのであった。 彼らの国家改造運動は、二つの特徴を持っていた。 ひとつは、自分たちの権力基盤を固めるためには、武力を使うことをためらわない、要人暗殺も厭わないというテロやクーデターの容認だった。 もうひとつは、自分たちの行動は常に大御心(おおみこころ)に沿っているとの自負だった。 自分たちは天皇陛下の軍隊であり、天皇の意思を忠実に具現化しているとの確信でぁつた。 昭和維新の旗を掲げて行動する自分たちは、天皇の意思を代弁していると信じ切っていたのである。

昭和初期の軍人のテロやクーデターは、天皇のお気持ちに一歩先んじて起こした「大善」であるというのであった。 このような歪みは、大正末期の「天皇がいて、いない時代」の副産物だった、と保阪正康さんは指摘している。

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