正月の三河万歳、才蔵市、御殿万歳、三味線万歳2026/03/11 07:22

 3月5日の「萬歳」から「漫才」へ、吉本興業と「漫才」で、「まんざい」の歴史にふれた。 「まんざい」のルーツは13世紀、正月の宮中に参入していた「千秋(せんず)萬歳」と呼ばれるものであった。 年のはじめに神霊がひとの家におとずれて祝福をもたらすという信仰が大昔から受け継がれてきていたから、神の姿にふんする者がひとの家々にきて祝福することが職業化されてきた。 「萬歳」は祝(ほ)ぎごとであり、それをするのはホガイビトである。 「宮中萬歳」が「民間萬歳」となって地方の各地(尾張萬歳など)に広まる。 太夫を賢者、才蔵を愚者と定めて、祝福芸の「めでたい」に「おかしい」が入り込んでくる。

 それで思い出したのが、子供の頃、正月になると東京の町にも門付けに来ていた三河万歳のことである。 考えてみると、私が小学校を卒業した昭和29(1954)年ごろまでは来ていたように思う。 「もはや戦後ではない」と、昭和31(1956)年の『経済白書』が書いた、戦後復興の終了と経済成長への転換期に、三河万歳も来なくなったのかもしれない。

 本棚に『東京生活歳時記』(社会思想社・昭和44(1969)年)があって、「年中行事」を漫画家の宮尾しげをさんが担当している。 一月に「万歳」があった。

 「めでたい春を祝うために、天皇家でもいろいろな儀式を行なう。これを民間でも真似したのが、江戸時代から各戸を訪ねてくる春の来訪者となる。それにはいろいろあるが、第一は万歳で、これは愛知県の三河地方から出てくるのが有名である。これを三河万歳といっている。万歳と才蔵の二人連れで三河の安城へんから出てくる。そして柱づくしというめでたくその家を誉め祝う歌をうたって、幾らかの銭をもらって歩く。

 烏帽子をつけ扇を手に祝い唄をする方が万歳、それに合わせて大黒頭巾、手に小鼓を持つ者を才蔵という。これは七福神の中の恵比須大黒を形どったものともいわれている。いまはこの二人は三河から出てくるが、江戸時代は中央区日本橋川に沿ったところに、四日市河岸というところがあって、ここに野州(栃木県)から才蔵役の者が前年の暮もつまった30日に出てきて居並ぶと、三河から出てきた万歳が、一人一人にあたって、自分と調子の合った者を選び出して、正月七日までの松の内間を、連立って歩くことにしたものであった。これを才蔵市といった。いつの間にか、才蔵が出てこなくなって、この習慣は廃止され、三河からも才蔵が出るようになった。

 三河には御殿万歳という別派のものがある。徳川家康が三河の者で、江戸に幕府を開いた関係から、三河の万歳が江戸へ祝儀を述べに来るのが毎年の例になった。この方の万歳は民間の家は祝って歩かないが、三河出身の大名屋敷をついでに回った。将軍家にあやかろうと、他地区の大名はこの万歳を招いた。今でもこの万歳は頼めば来訪して来る。そしてこちらから「これはこれはめでたき春に、ようおいで下されました」と挨拶しなければ、満足な芸能を披露してくれない。

 この御殿万歳同様に民間の者をあやからせようというのが、門付の三河万歳である。鳥目(謝金)の過少によって、芸の異同はある。近年は女性の万歳も出ている。中には三味線入りの者もある。正月七日に熱海に旅行したところ、この三味線万歳に出会った。尋ね聞いたらば、東京を振り出しにして、横浜を経て順次西へ下って最後は生国三河に戻るのだという。完全に営業である。」

ラグビーで活躍し、エベレストで亡くなった成田潔思君2026/03/10 07:12

 S君の「花園出場の感動」の後半に、志木高ラグビー草創期の仲間の話がある。 卒業まで残った同期は11~12人だったが、社会人リタイア後しばしば会うようになっていたけれど、残りは5人になってしまったという。 私も同期で、志木高は人数の少ない学校だから、みんな知った名前だ。 残念ながらこの世を去ったという中に、3年の時に私と同じクラスだった成田潔思君の名前がある。

 「冬休み中に登山に取りつかれ、大学では山岳部キャプテンを務めて、卒業後はヒマラヤ登山隊に参加して不運にも命を落としました」とある。 その成田潔思君の雨中のハーフラインからのゴールキック成功は、いまだに仲間内での語り草だと、S君はこう書いている。 「ラグビーでサイドキックは珍しい時代でした。豪雨が降りしきる中、たっぷり水を含んで重くなった楕円球を、彼は得意のサイドキックで見事にゴールポストの中央を射抜いたのです。彼はサッカー王国浦和の出身で、もともとキックには自信を持っていました。加えて浦和(与野?)の自宅から志木まで片道10㎞を毎日自転車通学して脚を鍛えました。今でもハーフラインからゴールを狙うキッカーはそう多くはいません。それを60年以上前の高校生がやってのけたのです。それもたっぷり水を含んだ妊娠ボールを蹴って決めました。彼が大学でラグビーを続けていればひとかどの選手になったことでしょう。」

 2020年に、三田あるこう会で川越に行った時、会員のNさんが5年下の山岳部OBだというので、成田潔思君の話になった。 成田君は大学山岳部のキャプテンだったが、卒業後の1970(昭和45)年、日本山岳会エベレスト登山隊に参加、4月21日に第一キャンプで体調を崩し、亡くなっている。

 テレビのニュースかドキュメンタリーで、同行の隊員がテントの中で「成田ーッ!成田ーッ!」と、叫んでいるのを見た。 この登山隊では、これより前の4月5日、ベースキャンプと第一キャンプの間の難所のアイスフォールで雪崩が発生、6人のネパール人シェルパが遭難していた。 それでも登頂は継続されたので、第一キャンプへの物資の荷揚げその他、責任感が人一倍強かった成田潔思君には過重な負担がかかったものと思われる。 5月11日、エベレストの日本人初登頂を果たした松浦輝夫隊員と植村直己隊員は、頂上に成田潔思君の遺髪と写真を埋めた。

 成田潔思君は、寡黙な良い男で、志木高校では蹴球(ラグビー)部で活躍、クラスでも成績優秀だった。 大学では山岳部に入り、キャプテンにまでなった。 Nさんによると、山岳部でも、野球部で言えば四番打者、何十年かに一度出るような逸材と、嘱望されている存在だった。 それで日本山岳会エベレスト登山隊に参加することになったのであろう。 体力気力は抜群、厳しいが優しい先輩だったという。 Nさんが1年生の時、北アルプスかどこかを登山中、増水した渓流の一本橋を渡っていて、ザイルを繋いだ仲間の1年生が転落したのを、成田君が一人で引っ張り上げた。 力の強い成田君でなければ、救えなかっただろうという話だった。 私が成田君と志木高で同じクラスだったというだけで感激し、親しみを感じてもらえた。

 2023年1月、三田あるこう会で「与野七福神めぐり」をした。 与野は成田潔思君が志木高に通っていた町なので、ここでも山岳部後輩のNさんと成田君の話をして、彼が務めていたのは、私が思い込んでいた日魯漁業でなく、ニチレイだと判り、海外からの大型買い付けに従事していて、28歳、当時フィアンセがいたと聞いたのだった。 嗚呼。

 その話をXに書いたら、与野で成田家の隣だったという女性からコメントがついて、成田君の家が与野だったことが確かめられた。

慶應志木高ラグビー、創部一年目「幻の花園」2026/03/09 07:06

 昨年末、慶應志木高校蹴球部・創部68年目の第105回全国高校ラグビー大会、花園での活躍を、ブログに書いたことを、同期のメール・アドレス宛に知らせた。 われわれは昭和32(1957)年に農業高校から普通高校に転換した慶應志木高校の最初の入学生で、少なかったクラブ活動や、それまでなかった生徒会を、創設したりして、楽しい充実した高校時代を過ごした年代なのだ。 私が未だに毎日ブログを書いているのも、実は慶應義塾志木髙新聞の創刊メンバーだったことを、引きずっている。

 12月29日の「高校ラグビー一回戦、慶應志木48対12で青森山田に快勝」にコメントをつけてくれたS君が、後日手紙で「花園出場の感動」という文章を送ってくれた。 入学した昭和32(1957)年、ラグビー同好会が発足、1年生の彼が勧誘されて入ると、1チームを組むのがようやくで、高校生とは思えないヒゲ面のキャプテンに「誰でもいいから連れて来い」といわれて、同じ中学から来たA君を引っ張り込んだという。

 夏の多摩川で10日間の強化練習を経た後、12月に中大杉並高と初めて試合をして勝った。 翌昭和33(1958)年4月に同好会から蹴球部に昇格した。 この夏、日吉の慶應高との山中湖合同合宿に参加して、力をつけた。 志木高はラグビーを始めたばかりの素人集団なのに、日吉高は全国大会の常連で、実力差は歴然、カルチャーショックを受けたがやるしかない。 両校の監督が話し合って、メンバー混成の練習を繰り返し、合宿の終盤には、何とか見られるようになったという。 高校の後、大学チームの合宿が予定されていて、大学1,2年生が練習に参加してくれたが、体格の違いと身体がぶつかり合う時の衝撃の強さに圧倒された。 彼のポジションがFWの2列目、セカンド・ロウで、同じポジションの大学生からスクラムの押し方の基礎を徹底的に叩き込まれ、合宿最後の日に「俺の教えを守れば絶対に強くなる」と激励された。

 夏合宿を終えるとすぐに秋のラグビーシーズンに突入して、県民大会の初戦は8月末だった。 当時、埼玉県でラグビー部のある高校は少なく、2、3試合も勝ち上がれば優勝だったが、全国レベルの2校が壁のように立ちはだかっていた。 浦和市立と熊谷高校(熊谷工業の前身)である。 初戦の相手は、何とその熊谷高校で、完封負けを喫した。 しかし、この敗戦はいい薬になり、自分たちの弱点がどこにあるか、はっきりした。 11月中旬の全国大会予選へ向けて、猛練習の日々を送った。

 全国大会予選の初戦の対戦相手は、またしても熊谷高校で、アウェーのグラウンドだった。 いよいよ試合当日、志木高チームはファーストスクラムから押しまくり、得点は前後半各1本のペナルティーゴール(PG)に留まったものの、よく防御した。 残すところあと数分の時点で、1 PGの差で勝っていた。 すると、リザーブ陣がレフェリーから一言二言注意を受けた。 多分応援がうるさかったのだろう。 試合の終盤は、熊谷高の猛攻を受けて、ゴール前に釘付けになった。 終了まであと1,2分のところで、スクラムを組む。 全力で押しまくる。 スクラムが回ったので、ハーフが球を入れるのを、ちょっと躊躇。 ピー! 無情にも、レフェリーの笛が鳴った。 ウェイストタイム(故意の遅延行為)と見なされて、相手にペナルティーゴールの権利が与えられた。 中央からあっさり決められて同点にされてしまった。 ノーサイド、勝敗を抽選くじで決めることになった。 キャプテンのひいたのは、無情にも負け籤だった。 監督は「負けたわけではないから胸を張れ」と言ったが、皆グラウンドに崩れ落ちて我を忘れて号泣した。

 ところが、号泣する志木高チームの面前で、熊谷高チームの猛烈な生タックル練習が始まった。 脇には鬼の形相をした監督が立っていた。 花園への切符はそうやすやすと手に入るものではないことを思い知らされた。 熊谷高はその後、順調に勝ち星を重ねて、花園出場を決めた。

 今回、創部68年目に花園初出場を決めた慶應志木高は、実は、68年前の創部の年に、花園出場の一歩手前まで行っていたのだった。 私は当時、この事実をまったく知らなかった。 初めに書いたように、慶應義塾志木髙新聞の創刊メンバーとして創刊第一号を出したのが、昭和32(1957)年9月9日で、2年生の翌昭和33(1958)年は慶應義塾創立100年の記念の年で、11月14日には「義塾百年のクライマックス 慶應の新しい出発点」の大見出しを立てた第六号を出していた。 今回知った、この蹴球部の花園寸前の活躍を報じられなかったことを、今になって申し訳なく思っている。

エンタツ・アチャコの「早慶戦」2026/03/08 07:34

 漫才が世間で人気を得るようになり、吉本興業も、落語中心から漫才の方へ力を入れるようになって、エンタツ・アチャコ主演の映画もつくられるようになった。 その契機が、エンタツ・アチャコの「早慶戦」が法善寺「花月」からラジオ寄席中継され、レコードというマスメディアによって、大阪のみならず、東京や地方都市にも知られるようになったことがある。 それは都市型の大衆が出現してきたことによっている。 その大衆に通じる口語体をエンタツ・アチャコは示したのである。 エンタツ・アチャコは、「漫才」芸が、時代の感受性の要求を即時的に示すものであるのを最初に表現したことで「漫才」の創始者といえるのだろう、と富岡多恵子さんはいう。

 エンタツ・アチャコの「早慶戦」を、少し見てみよう。
アチャコ…早よう出かけたんやけれどもなあ、満員でまァようような、ファースト側に座ったんやが、君はどこにおったんや。
エンタツ…僕もいったところが、どこも座るところがないからね、ようよう、セカンド側に割り込みました。
アチャコ…セカンド側? そんなとこ入られへんや。
エンタツ…その入られへんのをね、特別入場を許されて……。
アチャコ…そんな無茶なことできるかいな。
エンタツ…それでも僕は、真ん中に座ってましたよ。
アチャコ…ホー、それやったら君、外野やないか。
エンタツ…あっ、そうそう外野ですわ。
アチャコ…たよりないこというてんなあ。
エンタツ…しかし、おもしろかったねえ。
アチャコ…そりゃ、君、早慶戦というたら、なんというても日本一の試合よってになあ。
エンタツ…はあ、実際おもろかった。しかしね、僕は、あの、ちょっとわからんとこがあるのやがなあ。
アチャコ…ほう?
エンタツ…早慶の相手は、あれ、どこでしたいな。
アチャコ…なに! 早慶の相手?!
エンタツ…ええ。
アチャコ…君、早慶戦のこというてんのやろが。
エンタツ…ええ。だけどね、早慶対どこそこというでしょ?
アチャコ…そんなたよりないことよういうてんなァ。早慶戦とはやねェ、つまり、早慶……早稲田対慶応の試合をもって、これ早慶戦というのやがな。
エンタツ…そんなことぐらい、わかっとるわいな。早稲田と慶応の試合を早慶戦というのやろ。
アチャコ…ちょっともわかったれへんが、心細いなあ。
エンタツ…いや、わかっとる。これでも野球通ですからなあ。
アチャコ…そんな、たいそうに。

「笑いの素研究所」から「漫才学校」へ、秋田實の「漫才」〝戦略〟2026/03/07 07:04

 秋田實がエンタツと出会った昭和6(1931)年」ごろから、大阪に帰る昭和9(1934)年ごろは、都会の生活様式に「洋式」がとり入れられて変化を見せる時期だった。 エンタツ・アチャコが舞台に洋服で出て漫才をしたのも、はじめてではあったが、そういう時代の風俗的変化を背景にしている。 とはいっても、女性の「洋装」はまだ珍しいことであり、「洋食」もまたそうではあり、「低級な」漫才師が、ホワイトカラーの象徴である背広姿で舞台にあらわれるのは、「漫才」の階級上昇、少なくとも「向上」をめざすことをあらわしている。 江州音頭や河内音頭の自慢のセミプロが舞台に立っていた、初期の「万才」では、たいてい着流しで、なかには浴衣に三尺帯というだらしない姿の者もいたが、それを紋つきハカマにしたのは砂川捨丸だったという。 衣装の点でははっきりと「萬歳」から離れようとしているのがわかる。 男女のコンビができるようになると、男は紋つきハカマ、女は裾模様ときまっていった。

 平井巳之助という人が昭和5(1930)年に東大を卒業して大阪に帰った秋に、秋田實は丸善のちかくのバラックのような二階建ビルの一室に「笑いの素(もと)研究所」なるカンバンを出して、京大文学部の学生ふたりを雇い(?)、新聞の切り抜きの分類や整理をさせ、笑いの資料のインデックスをつくっていたという。 藤沢桓夫も、心斎橋のその部屋のことを回想していて、学生のひとりが後に吉本に入った吉田留三郎だった、と。 秋田には特高がつきまとっていたというから、「笑いの素研究所」のカンバンは、秋田の、官憲への戦術的なものがあったのかもしれない。 秋田が、エンタツと会う以前にすでに、それまで集めてもっていた笑いに関する資料を整理し、新聞を綱目別に切り抜いて、「笑いの辞典」のインデックス、たとえば「ヒコーキ」というテーマで笑いのコントを書こうとする時の便宜のために、「ヒコーキ」に関するニュースやデータを分類していたらしいのは、注目していい。 秋田が、「笑い」を「笑いの素」に分析し、それを組み合わせることで新しい笑いをつくり出す帰納法、「笑い」と「笑わせ方」に強い興味を抱いていたことがわかる。 (私はここを読んで、この一連の秋田實についてのブログが、司馬遼太郎『この国のかたち』の「索引」を自作したノートを見つけたことから始まったのを思って、感慨深いものがあった。)

 秋田が昭和9(1934)年に吉本興業に入ると、エンタツが「低級」だといった漫才師たちに、秋田の笑いのネタはことのほか喜ばれた。 こんなに大勢の人達に親しまれるのは生れてはじめての経験で、その信頼にこたえるために夢中になった。 一日中いつも誰か漫才師と舞台の話をし、毎夜のように誰か若い漫才師を家に連れ帰った。 自分の提供するネタ(理論)が漫才師に使われる(実践)と、結果はその日の舞台でわかる。 そのネタが受ければ、これほど楽しいことはない。 漫才と漫才師の変革(それらへの仕掛けも)を、即刻、自分の目で見られるのだ。

 だが60組に余る漫才師の全部のネタの相談には応じられない。 秋田の身体と時間の奪い合いとなったので、日に一回、集まってもらって、小さい1、2分のネタだったが、時事のニュースや色々の笑話や小咄を、希望に応じて配給する「ネタのセリ市」を開くことにした。 「ネタのセリ市」は、のちに発展的解消して、「第一回新作発表漫才研究会」(昭和11年2月)となった。 漫才作者でなく吉本の一社員、編集者林廣次の名で、雑誌「ヨシモト」が、昭和10(1935)年8月に創刊された。 その二年後には、吉本興業に漫才の新人養成機関「漫才学校」を提案し、実現している。 同じ頃、マンガ家の平井房人との共同編集で漫才台本集を次々と大阪パック社から出している。 こうして見てくると、秋田實の「漫才」への〝戦略〟とでもいうべきもの、いや、戦略家としての秋田の才能が見えてくるといった方がいいかもしれない、と富岡多恵子さんは書いている。