ジョージ・ケナン、マッカーサーに占領政策の転換を促す2025/08/28 07:07

 朝日新聞「百年 未来への歴史」「米国という振り子」8月18日〈2〉の見出しは、「マッカーサーという「家父長」」、「強権を変えねば 外交官は動いた」(ミルウォーキー=青山直篤記者)。 ダグラス・マッカーサー(1880~1964)は、対日戦争を率いた米陸軍元帥、日本の占領政策を指揮した連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官。 彼が日本に民主主義をもたらす決意で占領に臨んだのは疑いない。 ただその占領政策においては、日本の民衆や政府はもちろん、米大統領や議会にすら制御できない独裁者のようになっていた。 自らの正義を疑わない理念の「伝道者」であろうとし、服従のかわりに庇護を与える「家父長」として振る舞う。 その姿は戦後の米国のありようとも重なる。

 この「英雄」に、米国の世界戦略の観点から占領政策の修正を説き、戦後日本の歩みに決定的な影響を及ぼした外交官がいる。 ジョージ・ケナン(1904~2005)、20世紀の米国を代表する外交戦略家、戦前から対ソ戦略に携わって米国務省で頭角を現し、1947年に初代の政策企画室長に就くとソ連の「封じ込め」を提唱。 軍国主義再来を防ごうと公職追放や財閥解体を進めるマッカーサーを、「日本社会を共産主義の政治的圧力に対して脆弱にさせる」と危ぶんでいた。

 ケナンは、家父長的な強権をふるえば日本の自立を阻む、「日本こそ米国の極東における要石であり、それは受け身の要石ではなく自ら行動する要石でなければならない」(1977年の著書)という一貫した信念を持っていた。 「無条件降伏政策で敗戦国(日本)の力を奪い、その責任を引き受けたはずなのに現実的対処に失敗している。後世、第2次大戦後の米国のあらゆる失敗のうち最悪のものだったと評価されるだろう」、ケナンは1948年1月末の日記にそう記し、マッカーサーに占領政策の転換を促そうと3月1日、東京に来た。

 手紙を送り、マッカーサー側近の情報参謀に働きかけ、数日後、マッカーサーと長時間の協議を許された。 マッカーサーもケナンの賢明さと戦略の明瞭さを学んだ。 ケナンはマッカーサーから大筋の了承を得て、帰国後に、新たな対日政策案をまとめる。

 「連合国軍最高司令官は現状のあらゆる権利と権力を維持すべきではあるが、責任を着実に日本政府へと委譲していくべきだ」「米国の安全保障に次いで、日本の経済復興が今後の主要な目的となるべきだ」。 従属から自立へ、重心を移す内容といえる。

 この政策転換を、トルーマン政権は1948年10月、国家安全保障会議(NSC)で「NSC13/2」として承認した。 沖縄や横須賀を米軍の拠点として確保しつつ、「日本の警察機構」を強化する。 一方で経済復興も強調し、「財政均衡への努力を含むインフレへの断固たる戦い」を求める。 そんな内容だった。

誤解し合い 詰んだ日米外交、幣原喜重郎と松岡洋右2025/08/27 07:03

 「百年 未来への歴史」「米国という振り子」の続き(田島知樹記者、ワシントン=中井大助記者)。 開戦前、米国は日本の暗号化された電報を解読し、政府内のやり取りが詳細にわかっていた。 その内容はグルーと共有されておらず、ワシントン側の方が情報を多く持っていた。 ただ、少なくとも日本の行動については、現地に長く住み、国の内情をよく知るグルーの分析の方が正しかった。

 グルーの行動を検証した『Our Man in Tokyo』を2022年に出版した著述家のスティーブ・ケンパー氏は「日本は米国を誤解し、米国は日本を誤解した。グルーは両国の通訳になろうとしたが、通訳が伝わらず悲劇となった。両国の強硬な姿勢が、外交を殺した」と話し、米国で、「グルーが日本に寄りすぎている」との見方もあったという。 今日も、「外交はどんなに手腕が優れていても、狂信の前には無力だ。共通の事実を認識することを拒絶する人たちの前では役に立たない」と、ケンパー氏は、米国を始め世界各地で目立つ権威主義の台頭を心配している。

 相手国との関係を読み誤り、戦争に突き進んでしまったのは、日本も同じだった。 敗戦からまもない1951(昭和26)年、吉田茂首相の指示で、外務省の若手官僚が「日本外交の過誤」という報告書で、米国との無謀な戦争に至った先輩たちの失敗を検証した。 「物事を現実的、具体的に考えれば、米英の経済力、国力も正当に評価しえたであろう。そうすれば、独伊と結んで日本独自の経済圏をつくりだそうというようなことは、現実性のない夢に過ぎないことも、明らかだった。」

 記事は、日本が「現実性のない夢」を追った過程は、2人の「知米派」の行動からも浮かぶとして、幣原喜重郎と松岡洋右を取り上げる。 第一次世界大戦は、米国の参戦で終結に向かう。 米国は民主主義の理念を掲げ、世界で圧倒的存在感を発揮した。 幣原は、米国の力を冷静に認識していて、その外交は英米協調路線を採り、1930(昭和5)年のロンドン海軍条約で頂点を迎える。 しかし、翌年にはその路線は行き詰まりをみせる。 1月23日の帝国議会で、外交官出身の松岡洋右議員が、幣原外交を追求、「ただ米国人の気受けさえよければよろしい、感情さえよくすればよろしいという風に見える」と。

 幣原の協調外交にとって致命的だったのは、1931年9月の満州事変だった。 関東軍が南満州鉄道の路線を爆破、侵略を始めた。 当事者間の交渉に応じない中国は、国際連盟に提起する。 1931年末、内閣の総辞職とともに、幣原は外交の現場を去る。

 松岡洋右は13歳で渡米してオレゴン大学を卒業、外交官になってからも、在米大使館で書記官を務めた。 1932年、英語力や海外についての知見を買われて、国際連盟総会の全権に任命された。 1933年、満州についての主張が聞き入れられなかった日本は、連盟脱退を宣言する。 日本は米国と対立する路線を強めていき、1934年には、外務省が(英米などを排除し)日本単独で東アジアの秩序構築を担う声明を発表する。 松岡は1940(昭和15)年に近衛文麿内閣の外相に就任する。 対等な力を持たなければ、米国と交渉は出来ないと考え、日独伊三国同盟や日ソ中立条約による体制構築などを進めた。

 だが、米国が支援する英国と戦争を続けていたドイツと同盟を結んだことで日米関係は悪化した。 独ソ開戦で松岡の構想も崩れ、1941年7月に外相を事実上解任された。 その後も米国との対立は深まり、1941年12月の開戦となる。 満蒙権益に縛られた幣原も、自身の米国経験に自信を持っていた松岡も、外交の選択肢を狭めてしまった。

グルー駐日米大使、奇襲を見抜き、首脳会談に期待2025/08/26 07:08

 朝日新聞の断続的な企画物「百年 未来への歴史」は、8月17日から「米国という振り子」が始まり、その〈1〉の最初の見出しは、「日本の奇襲 見抜いていた米大使」「幻に終わった「ルーズベルト・近衛会談」」だった(ワシントン=中井大助記者)。 1932(昭和7)年から開戦までの間、駐日米大使だったジョセフ・グルー。 日本による攻撃の可能性を事前に指摘し、回避しようとしていた。 「米国と決裂した場合、日本が真珠湾の奇襲を計画しているという趣旨のうわさが広まっている」(1941(昭和16)年1月27日の日記) 「米日関係が次第に劣化し、最終的に戦争に至ることがもう一つの可能性かもしれない」(1941年5月27日の電報) グルー大使の、日本政府関係者とのやり取りや、米国務省へ送った電報の内容などを詳細に記した日記を始めとする関連文書は、母校のハーバード大学で保管されている。

 開戦直前まで、米政府では「日本は攻撃をしない」という考え方が主流だった。 グルーは違う立場を取った。 11月3日の電報では「日本が外国の圧力に屈するより、国家としての自殺の危険を冒してまで、決死の行動に出る可能性が高い」と訴えた。 日記には「日本の論理は、西洋の基準でははかれない。我々の経済的圧力が、日本を戦争に追いやらないという信念を基に政策を立てるのは危険だ」と記した。

 だが、聞き入れられなかった。 グルーは日記で「まるで夜中に、池に小石を投げ込んでいるようだ。消えてしまい、多くの場合は波すら見えない」と嘆いている。

 1941年秋、日本側は近衛文麿首相と米国のフランクリン・ルーズベルト大統領の会談によって対立を解消することに期待をかけた。 グルーも後押しし、在日米大使館のスタッフも実現に奔走した。 しかし、米国側は冷たかった。 コーデル・ハル国務長官は回顧録で「グルーの日本への理解は尊敬に値したが、ワシントンの我々のように世界全体の状況を推測することはできなかった」としている。 ハル自身、英仏がナチスドイツに宥和したミュンヘン会談の再来になることを懸念した。

 近衛内閣は1941年10月に総辞職し、その後発足した東条英機内閣の下で真珠湾攻撃が行われる。 グルーは日本に半年間留め置かれ、その間に「なぜ、日米が開戦に至ったのか」の最終報告を書き上げた。 1942年8月、米国へ向かう船で書いたルーズベルト宛ての手紙では、将来の歴史家もこの報告書を活用するであろうと期待している。 また、両国の関係を改善するためには「ドラマチックな行動が必要だった」とし、近衛との会談がそれになり得たと述べている。

 しかし、手紙は送られず、最終報告書が日の目を見ることはなかった。 帰国したグルーはワシントンでハルに報告書を渡す。 だが、グルーの秘書官として待機していたロバート・フィアリーは、ドアの向こうからハルが声を荒らげる様子を聞いていた。 ハルはグルーに「報告書を廃棄するか、公表して米国民の判断に委ねるか、いずれかを選ぶよう」迫り、戦中のまとまりを重視したグルーは前者を選んだ。 戦後も日米関係に携わり、米統治下の沖縄民政官も務めたフィアリーは、グルーがハルや国務省と決裂するより、日米関係に寄与することを選んだ可能性があるとみた。 実際、グルーは戦中も国務省で仕事をし、日本の降伏や戦後の天皇制維持に関わった。

「トレチャラス・アタック」2025/08/25 07:12

 三國一朗さんの『戦中用語集』に「トレチャラス・アタック」という項目がある。 トレチャラスtreacherous という英単語を知らなかった。 「トレチャラス・アタック」という英語のフレーズを、ラジオで日本の国民に話したのは、開戦時にワシントンで野村大使をたすけ対米交渉に当たった、大使の来栖三郎で、日米開戦の後日本に帰った彼が国民に開戦当時のワシントンでの体験を告げたスピーチの中の一つのことばだった。

 要するに、日本軍(ハワイ作戦軍機動部隊)による「真珠湾攻撃」は、日本の駐米大使から手渡された〈最後通牒〉よりも1時間20分早く開始された、その事実を指摘した当時のアメリカの世論の中の〈用語〉がこれで、日本語に訳せば「だまし討ち」、日本側の“卑怯な”やり方という意味を強く含めたことばだった。 来栖大使は、ハル長官に限らず、「真珠湾」以後のアメリカ人は、自分たち日本人を面罵する口調で常にそれを言ったと、話した。 「真珠湾」の一撃が、「リメンバー・パールハーバー」に標語化されて、アメリカ中を奮起させたことも事実である。

 そもそも奇襲の第一報がワシントンの海軍省に着いたのは、現地時間で7日の午後1時50分。 大統領がすぐハル国務長官に電話すると、ハル長官は驚いて、「本当ですか!」と聞き返したというのが有名な話である。 野村・来栖両大使が、問題の「覚書」を手にして国務省に到着、長官の部屋に入ったのは2時5分すぎだった。 会見は、2時20分にはじまる。 ハル長官はまず壁の大時計を仰ぎ見て、時刻を宣言したうえ、「覚書」(日本文にして、約4000字)を読み、ひどく興奮した態で、「私の50年の公的生涯を通じて、このような虚偽に満ちた文書は見たことがない!」(加瀬俊一『ドキュメント 戦争と外交』上、読売新聞社、昭和50年)と、吐き捨てるように言い、野村大使が口をはさもうとするのを無視し、だまってドアを指さした、という。 二人の大使は、大使館に帰ってはじめて真珠湾の「奇襲」を知る。

 ただ、アメリカの上層部が、日本の「奇襲」を全く予期しなかったかといえば、それはちがうらしい。 ただ、日本がやるにしても「南方」への進撃で、まさか「真珠湾」とは想像しなかった。 その驚きと衝撃は大きかったという。 つまり、〈第一弾を射つ立場〉に日本を追いこむことは前々から考えていたが、現実の第一弾が真珠湾に来るとは思いもよらなかった、ということである。 タイ、マレー、蘭印、フィリピンあたりと、先方は予想していたのであった。

 当時学生だった三國一朗さんには、世界の耳目を集める日米間の交渉の舞台で、相手方から「トレチャラス・アタック」と痛罵されるような「奇襲」のプランが、日本の軍隊に、日本の指導者層にあった、という想像は辛かった。 当時は考えも及ばなかったが、日本の敗戦は、その第一段階の真珠湾の一時的な戦果に酔ったことと、どこかで繋がってはいないだろうか、と書いている。

「八紘一宇」を知っていますか?2025/08/24 07:41

 三國一朗さんの『戦中用語集』に「八紘一宇(はっこういちう)」があった。 昨日書いたように、私は1941(昭和16)年4月に生まれて、次男坊だったので、「八紘一宇」から紘二と名付けられた。 三兄弟、兄は晋一、弟は晴三と、番号が付いている。 同級生には、名前に「勝」や「捷」、「征」の字が入っている人がいる。 「紘」の字を説明するのに、昔を知る人には「八紘一宇」の「紘」、糸偏にカタカナの「ナ」と「ム」を書くと言う。 よく糸偏に「広」、「絋」と間違える人がいる。 パソコンで打つのには、ピアノの中村紘子さんの「紘」と説明するけれど、中村紘子さんも古くなったかも知れない。 戦前、宮崎に巨大な「八紘一宇」の塔があった写真を見たことがあり、出羽三山の月山頂上に「八紘一宇」の碑があるのをテレビで見た。 宮崎の塔は、八紘之基柱(あめのもとはしら)、「八紘一宇」の字は秩父宮の揮毫、戦前の十銭紙幣となり、現在は「平和の塔」と呼ばれているそうだが、「八紘一宇」の部分は、どうなっているのだろうか。

 そこで、『戦中用語集』の「八紘一宇」。 紀元二六〇〇年の式典で、総理大臣の近衛文麿は、天皇の「臣」を代表して、非常時を打開し、「八紘一宇」の「皇謨(こうぼ)」を「翼賛」する、と宣言した。 そして、宏く大きく限りない天皇の「聖恩」にむくいるのが国民の覚悟であると、公けに、これも「宣言」した。 「八紘一宇」の「皇謨」とは何だろうか。 三國一朗さんなどのように、昭和以前に生まれた日本人は、こうした意味のよくわからない日本語をいくつも知っていた、いや、知らされていた。 「天壌無窮」「国体明徴」なども、なんとなくフィーリングとしてはわかるが、正確な意味となると、自信が持てない。

 三國一朗さんは、紀元二六〇〇年の昭和15年に高校の教室で、この「八紘一宇」の原典らしいものについて教わった記憶がある。 『国体の本義』(昭和12年5月)という内閣印刷局発行の教科書だ。 「八紘一宇」は、神武天皇が大和の橿原(かしはら)の地に都を定めたときの詔(みことのり)の中に、それがある。 乾霊(あまつかみ)という祖先の神から国(日本)を授けられたことを感謝し、子孫を正しく養い育てようと思う、そして国内をおさめて都をひらき、八紘(あめのした)を掩(おお)って宇(いえ、家)としたい……、というのだから、要するに天下を一つにしたい、これにつきるようだ。

これとまた同じことは『日本書紀』にもあり、そちらは「六合を兼ねて以て都を開き、」八紘を掩ひて而して宇と為す」(巻の三)というのだから、要するに元は一つであろう。

中国から東南アジアにかけて勢力を伸ばし、北京やシンガポールを自国の都市の一つとみなして、諸民族を統合し「大東亜共栄圏」を作ろうではないか……、田中智学(宗教家)が造語したという「八紘一宇」を昭和の時代にあてはめると、およそこんなことになったのではないか。 と、三國一朗さんは書いている。