三代目桂南光襲名披露口上で、師弟ともに泣く2026/04/11 07:21

 桂南光は最初、大師匠の桂米朝に「べかこ」という名前をつけてもらった。 米朝門下には「ざこば」兄さんがいる。 べかこが、内弟子を終えて初めての大みそか、西成の近所に住んでいたんで、ご飯を食べに行くと、出稼ぎの人らで、えらいにぎわっていた。 みんな仲間同士。 でも、こっちはたった一人、アルミ鍋の鍋焼きうどんをつつきながらテレビで紅白歌合戦を見て、「俺はもうこんな人生を選んでしまってんから」って。 噺家としてやっていこうなんて気はまったく起きず、気付いたら涙が流れていた、という。

 いまみたいに簡単にバイトも探せない、ほんとに金がなかった。 ある時、ざこば兄さん(当時は朝丸)が「べかちゃん、お前、お金あんのんか」と聞いてきて、「ありますけど」って強がったら、「いやいや、顔見たらわかんねん。俺もなかったからな」って5千円とか1万円を貸してくれはった。 営業に行って何万円かもらった時に「とりあえず1万円返します」って言ったら、「そんなお前、水くさいことすな。貸したんちゃうからな」って。 噺家の世界っちゅうのはええもんやなあって思った。

 でも、ざこば兄さんの襲名披露のとき、舞台の口上でその話をしたら、「いま俺、金無いから返してくれ」って。

 南光になる時も、楽屋で桂米朝師匠が「おまはんも、いつまでもべかこっていう名前嫌やろ」って。 あなたがつけた名前で、あのとき私がどんだけ嫌やったか、とは言われへんから、「べかこで皆さんに顔や名前を覚えてもろたんで、もうべかこで結構です」って答えた。 そやけど米朝師匠は「そこそこやってきたら、襲名というものをせなあかんから」と。 うちの師匠枝雀も同意されたので、襲名することになった。

 初め、決めかけた名が、萬(よろず)に光ると書いて「萬光(まんこう)」だった。 二代目が明治の噺家で、うちの師匠も「こんなええ名前はないで。それで行こう」と乗り気だった。 ところが、出演していたNHK「バラエテイー生活小百科」のプロデューサーが、番組で笑福亭仁鶴師匠が「萬光」「萬光」と呼ぶことになるので、考え直してほしいって。 うちの師匠が米朝師匠に相談して、「全国ネットのテレビか。それはちょっと具合悪いなあ」と、別の名前を探すことになった。 よう調べたら初代萬光の弟子に初代南光という人がいて、二代目が安政元(1854)年生まれやから世間の人は誰も知らん。 うちの師匠は「南に光る、明るいし、ええやないか」と、私より襲名を喜んでくれた。

 平成5(1993)年11月23日、三代目桂南光襲名披露落語会が大阪の旧サンケイホールで開催された。 口上で、うちの師匠桂枝雀が涙ぐみながら、「この男がなかったら、いまの自分もないような気がします」とおっしゃって、あれにはびっくりした。 20年以上の付き合いやし、最初に病気になられた時も、別に励ますわけやないけど、ずっとそばにおりましたからね。 「やっぱりこの人の弟子になってよかったな」ってほんまに思いました。 もちろん私も泣いてましたけどね。

 襲名の場で「ちりとてちん」を披露した。 一番愛着のあるネタだ。 20代後半の頃、初代桂春団治のレコードにあるこの噺を、師匠が「近ごろ誰もやらんなあ。やったらどうや」って。 知ったかぶりの男が、腐った豆腐を長崎名物の「ちりとてちん」だと言われて、知ってますと強がって、食べて困るっていう滑稽噺だ。 噺の中に、誕生祝いの席でタイの刺身の後にサバのきずしが出てくる。 師匠に「魚ばかりやのうて、きずしの代りに、私の好きな茶碗蒸しとかはどうですか」と相談したら、即座に「茶碗蒸しええな」って。 うちの師匠はたいがいなんも考えんと返事しはるんですわ。

 この「ちりとてちん」は、師匠と二人で相談しながら作り上げていったネタで、「茶碗蒸し、初めてでございます」って大げさに言ったり、アドリブから「銀杏(ぎんなん)って、どんなん、こんなん」っていうギャグがうまれたりした。 そして、茶碗蒸しのくだりは、上方落語で幅広く採用されるようになった。

感想文を送ると、やってくれた「浮世根問」の初稽古2026/04/10 07:11

桂枝雀の人柄が分かるので、桂南光の「語る―人生の贈りもの―」の先を読みたい。 「君は落語も聞かんと私とこへ弟子入りに来たんですか」と言われた南光、何とか落語を知っていると伝えたくて、この間、桂春団治さんの『寄合酒』をテレビで見ました、「面白かったです」と。 すると、桂枝雀(小米)は、「それなら君、春団治さんのとこ行きなさい。私の落語も聞いてないのに、私のとこへ来るのはおかしいでしょ」と。 それでも、食い下がって、春団治さんとは気が合わない、小米さんとは気が合うと思うと言うたら、「とりあえず私の落語を聞いて、感想文でも送ってきなさい」と、京都の安井金比羅宮でいまもやっている米朝一門の勉強会のことを教えてくれた。

枝雀(小米)の『寄合酒』を聞き、感想文を送ると、電話がかかって、日曜日に伊丹にあった師匠の下宿先に行った。 「感想文はなかなか面白かった。あなたが噺家になれるかどうかはわからないけど、一応、落語というものを体験してください。お稽古しますからって」。 浴衣を着せてもらって、師匠と向かい合わせで座った。

「浮世根問」という前座のネタを目の前でやってくれはった。 初めて聞きますし、めっちゃおもろい、ガーハッハッハって笑ってたら、師匠が「森本くん(本名)、私はね、君を笑わすためにやってるんやないねんから。これ稽古や。君が覚えて、君がやんねん」って言われたので、「こんなアホなことよう言いませんわ」と言うたことを覚えている。 で、うちの師匠がアッハッハーって笑って「それでは噺家になれませんなあ」。

「はあ、すんません。なんとか頑張りますわ」って。 でも、上下(かみしも)も分かりませんやん。 師匠が「こんにちは」 「おう、おまはんかいな。こっち上がり。どないしてんねん」 「いや、ここんとこ仕事がのうてね。ぶらぶらしてまんねん」 「あかんがな」って、三回ぐらいやりはって、「森本くん、ちょっとずつでいいからやってみて」と言いはった。

「どこ見たらいいんですか」と聞いたら、「いや、どこ見るとかじゃのうて、ここに甚兵衛さんという人がおるねん。その人を見て言うわけや」と。 そして、師匠が動いてくれて、「私が甚兵衛さんだから、私に向かって『こんにちは』と言いなさい」。 それで「こんにちは」と言うと、師匠がまた動いてくれて、「今度は君が甚兵衛さんになって、『おまはんかいな』と言いなさい」。 師匠がいちいち動いて教えてくれはった。

自分なら「そんなことも知らんのか。もう、君、無理やわ」って言うのに。 なんてええ人なんや、この人がええ人で、気が合うと思ったのは間違いないと思った。

桂枝雀の落語を聞かずに、弟子入りを志願した桂南光2026/04/09 07:04

 桂枝雀の弟子、桂南光が2月末から、朝日新聞の「語る―人生の贈りもの―」14回を連載した。 桂南光は、NHKの料理番組で、大原千鶴との軽妙なやりとりで、東の和田明日香・「ずん」の飯尾和樹組の向こうを張っている噺家である。 桂南光は、進路に迷っている頃、ラジオの深夜放送で桂枝雀(当時は小米(こよね))がパーソナリティの番組で淡々としゃべるのを聞いた。 テーマは、宇宙の話とか、死後の世界とか、人間はどこから来てどこへ行くのかという質問に答えたりとか。 顔もはっきり知らなくて、でも、この人なんか面白いなと。

 いろいろ調べたら、阪神百貨店にあったサテライトスタジオで別の番組を収録していることが分かった。 阪神と阪急をつなぐ陸橋で、「弟子になりたいんですが」と言うた。 イメージとしては、一緒に暮らせる書生っていうのはええなって思っていたんだが、相手は噺家なので、書生って言えなかった。 師匠は「ほぉ、私の弟子にね、分かりました。じゃあ話聞きましょうか」と言って、近所の喫茶店でお茶を飲みながら、「私の落語の何が気に入って来たんですか」と聞いてこられた。

 うそ言われへんし、「いや小米さんの落語は聞いたことなくて、いつもやってはる深夜のラジオのディスクジョッキーを聞いて面白いなと思いました」と言うたら、「君は落語も聞かんと私とこへ弟子入りに来たんですか」と。

ミレニアムの頃、「浪速の爆笑王」桂枝雀を失った2026/04/08 07:12

 パソコンやコンピューターで、ミレニアム問題が騒がれたことがあった。 1999年から2000年に変わる時に、誤作動を起こす可能性があるというのだった。 結局は、大したことはなかったのだったけれど…。

 朝日ネットのパソコン通信の電子フォーラムに、「演劇談話室」があり、その中に「浮世床談笑噺」という落語について語り合う分科会があった。 朝日ネットでは、そのパソコン通信も、電子フォーラムもなくなり、今や、ブログ「アサブロ」も2月24日で新規アカウントの発行とブログの新規開設受付を終了し、存続が風前の灯かと心配される状況になっている。 その「浮世床談笑噺」に、1999年7月11日、私は「桂枝雀さんの追悼番組」という書き込みをしていた。

 「TBSテレビが13日(火)未明の午前1時30分から3時まで、桂枝雀さんの追悼番組を放送します。 国立小劇場での落語研究会には、枝雀さんが22回も来演されていますが、その中から『三十石 夢の通い路』を選んでの放送です。 関東エリアの方は、必見、必録画かと思います。 山本文郎さんと榎本滋民さんが司会と解説をする例の「落語特選会」という時間枠です。」

 落語研究会で、桂枝雀を22回も聴けたことは、私の落語愛好の歴史で、大きな財産だったというほかない。 その高座は、身振り手振りも含めて、とにかく面白く、爆笑の連続だった。 だが鬱病を発症し、自殺を図り、意識不明のまま1999年4月19日に亡くなった。

 私は、ようやく翌年になって「等々力短信」に、2月15日の第868号に「緊緩の法則」、25日の第869号「桂枝雀哀惜追善 マクラ「進化論」」、3月5日第870号「ナマンダブ」を書いていた。

 「ナマンダブ」から、一部を引く。 「もうすぐ一年になるのだけれど、日増しに桂枝雀という落語家を失ったことの大きさを感じるようになってきた。 枝雀が「緊張と緩和」などと言い出したのは、笑いの法則のようなものが発見できれば、笑いの量産も可能になると考えたからで、あとは日なたでぼーっと暮していればよいといっていたという。 しかし枝雀自身は「緊張と緩和」の法則の発見にあきたらず、「緊張」のしっぱなしで、ついに日なたで「緩和」することがなかった。 毎回グロッキーになるまでやる大熱演で、あれだけの笑いを取りながら、それに満足できなかった真面目な性格が、哀しく、お気の毒なことだった。」

 「国立小劇場の落語研究会へは、昭和55(1980)年1月22日のくしゃみ講釈から、平成9(1997)年12月26日の天神山まで、合計22回の来演があった。 饅頭こわい(2回)、寝床(2回)、くやみ、植木屋娘、代書屋、ちしゃ医者、どうらんの幸助、崇徳院、高津の富、花筏、愛宕山、舟弁慶、住吉駕篭、宿屋仇、軒づけ、三十石、宿替え、高津の富、とネタも厳選し、東京落語への対抗意識を燃やして、この会に臨んでいたのではないだろうか。 マクラは、新幹線、リニア・モーター・カアというのが多かったように思う。 新大阪で買った駅弁の…(ピューッ)…フタを開けたら「トーキョー、トーキョー」という話だった。 合掌。」

立川談四楼の「百年目―没後百年、生誕百年」2026/04/07 07:04

 その六代目三遊亭円生が、あることを間違って自慢していたという事実を、最近知った。 私が2月25日の「等々力短信」第1200号に「短信50年」「昭和100年」と書いたのを読んだ友人が、図書館で新潮文庫の『百年目―ミレニアム記念特別文庫』(平成12年(2000年))という本が目に入り、借りてきたら面白かった。 「42人の随筆集で一番目が谷川俊太郎の「百年目」で、最後が立川談四楼の「百年目」です。立川は大学の講義に関するものでなかなか辛辣(塾ではないらしい?)ですが、非常に面白い。貴殿が採り上げているのではないかとも想像しましたがどうでしょうか? もしまだでしたら、コピーを送ります。」 落語の「百年目」は知っているけれど、その本は読んでいないと返信すると、親切にコピーを送ってくれた。

 立川談四楼の「百年目―没後百年、生誕百年」を、さっそく読む。 立川談四楼は、どこかの大学の文学部で講師をしたという。 ある日の講義で、有史以来、誰か一人落語家の名を挙げろと言われたら「大円朝」と答えるのは、その功績から必然だと、三遊亭円朝の話をし、明治33年8月11日に62歳の生涯を終えた、という話をした。 そして、三日後の独演会で『真景累ヶ淵』のうちの『豊志賀の死』を演るんで、聴きに来たら単位をやる。 受付で学生証を見せれば千円でいいや、その代わりレポート400字3枚提出しろということにした。

 その独演会は、満員札止めとなった。 『豊志賀の死』の出来もよかった。 終演後の会場周辺で、女子学生の輪に引きずり込まれた。 「キャー、タチカワ先生」 「わ、私はタテカワだ」 「そんなことはどうでもいいンです。先生、今日よかった、新しいィ」 「新しい? どこが」 「スゴい先生、ミレニアムですよね」

 講義で三遊亭円朝が明治33年に亡くなったと聞いたが、明治33年といえぱ西暦1900年、今年平成12年は2000年、「没後百年だから、ミレニアム記念として円朝作品をやってくれたンですよね。発想が新しいィ」

 談四楼は、知らなかった。 この正月、西暦2000年と聞いて、21世紀だと叫んだというのだ。 談四楼は、『真景累ヶ淵』の発端『宗悦殺し』に挑もうとして、亡き六代目三遊亭円生のCDを聴いていて、京須偕光(ともみつ)著『圓生の録音室』(中公文庫)を読んだ。 するとそこに、「私(円生)はね、明治33年の生まれなんですよ。つまり大円朝の亡くなった年に生まれたというわけで」と、円朝の生まれ代わりを自負し、さらに「明治33年は西暦で言うと1900年で、皆さんは私を古い古いと言いますが、私はね、20世紀生まれなンですよ」とあった。 20世紀は1901年に始まり、21世紀は2001年から始まる。 円生も、談四楼と同じように、世紀の始まりの年を間違っていたのである。

 私がちょっと心配になったのが、明治34年(1901年)2月3日に死んだ福沢諭吉のことである。 そこで、慶應義塾で世紀送迎会をやり、福沢が「独立自尊迎新世紀」と揮毫したのは、いつだったのか、確認した。 世紀送迎会は、明治33年12月31日午後8時から三田で開かれていた。 福沢諭吉も、慶應義塾も、円生や談四楼と同じ間違いはしていなかった。 めでたし、めでたし。