日吉のカマボコ校舎2005/07/01 09:40

 60年安保と早慶六連戦の年、1960(昭和35)年4月に入学して、大学の1年 と2年を日吉のキャンパスで過した。 2年生の時だったと思う、英語の授業 でカマボコ校舎を使うものがあった。 波状トタンを張った文字通りカマボコ 型の教室だった。 英国には越えがたい上流階級があるという“Topside”?を 教わった女子高の校長をなさった鷲巣尚先生や、リチャード・オールディント ンの“All Men are Enemies”を読んだ上田保先生(「等々力短信」第318号) の授業だったろうか。 いま思えばカマボコ校舎は、米軍のカマボコ兵舎のな ごりだったのである。

 戦争末期、海軍に徴用されていた日吉の大学予科校舎などは、そのために終 戦間もない9月6日、連合国軍に接収された。 その現場に居合わせた平松幹 夫大学予科教授の記録が、『慶應義塾百年史』中巻(後)1045頁にある。 ジー プで乗りつけ、接収状を突きつけたアメリカ軍の兵士の一隊は、「明日午前中い っぱいに、一切ここから立ち退くこと」を命じた。 建物の中を案内させ、一 部屋一部屋のドアに手をかけるたびに、剣付きのライフルの銃口を、内部に向 けてかまえた、という。

 全施設のおよそ六割を戦災で失った慶應義塾にとって、日吉地区に残った全 塾残存施設の半分にあたる建物、そして13万坪をこす広大な日吉キャンパス は、復興の頼みとなるものだった。 しかし、それが終戦早々にアメリカ軍に 接収されてしまったのである。 いろいろと返還運動をしたにもかかわらず、 接収解除まで4年の歳月がかかり、1949(昭和24)年10月1日にようやく返還 式が行われた。 返還された施設のなかに、「アメリカ軍の新設した小型兵舎」 が含まれていた。(『慶應義塾百年史』下巻310頁) 私が、その11,2年後に、 “All Men are Enemies”を教わることとなるカマボコ兵舎である。

「落語研究会」の歴史的な日2005/07/02 07:17

 6月30日は第444回落語研究会。

「金魚の芸者」     林家 ぼたん

「三人無筆」      柳家 一琴

「質屋庫(ぐら)」    柳家 権太楼

        仲入

「そば清」       春風亭 昇太

「景清」        林家 正蔵

 林家ぼたん。 次に上がった一琴が、今日の客は歴史的な日に立会っている、 といった。 ぼたんは明治に始まる第一次「落語研究会」以来、初の女性演者 だから…。 本格落語の復興をめざした三遊亭円左(円朝の弟子)が、夏目漱石 が名人といった三代目小さんをさそい、石橋思案や岡鬼太郎、今村次郎の応援 を得て結成した「落語研究会」の第一回の発表会が日本橋の常磐木倶楽部で催 されたのは、明治38年3月21日のことだった。 関東大震災まで18年続い たこの会が第一次、昭和43年3月から始まり私がずっと通っている現在のTBS 主催の会は第五次ということになる。 伝統的な芸格、落語のトリデを守って きたと評価されている「落語研究会」に、ついに女武者が登場したのである。  ぼたんは、ずっとこの会の「めくり」(前座)を務めてきたから、いずれ高座に 上がる日もあるかと、思っていた。 めでたく二ッ目昇進、こん平の弟子だと いう。 黒い着物に、濃緑の袴もきりりと、明治の書生風で出て、「暑い」とい う。 着物の世界では、明七月一日から夏物になるのだそうだ。 着物を着て いると、「ちょっといいかしら」と寄って来て、口出しする「お直しおばさん」 というものが必ずいて、先日も新幹線の車中で、帯を解かれ、最初から直され たという。 「金魚の芸者」、歴史的立場で硬くなってもいたのだろう、まだま だという出来だった。

 一琴は、だいぶ痩せた。 西郷隆盛みたいだったのに。 頭をきれいに、ま るめている。 今あえて「無筆」の噺をするのには、最近あることを経験した からだ、という。 思い立って韓国語を勉強しようと、TBSじゃない某テレビ 局の語学講座で始めた。 やる気満々、テキストの定期購読を申し込んだ。 2 週間目に、ハングルというあの字、鍵穴みたいな字の羅列に閉口して、挫折し た。 あれは利口のやることじゃない。 それで「無筆」の気持が、わかった。  以来、毎月20日になると、定期購読したテキストが送られて来て、「無筆」の 気持を復習する。 「三人無筆」、なかなかの出来だった。 この人、将来に大 きな期待が持てる。

権太楼の「質屋庫(ぐら)」2005/07/03 07:12

柳家権太楼が傑作だった。 オランダから北欧の方、アイスランドなどを、 一か月ほど旅行して来たという。 旅行というより、修業のようだった。 も う、外国は行きません。 生涯、行かない。 旅行は、日本に限ります。 熱 海とか、伊東が、いい。 韓国が好きで、食べるものも旨いし、年にいっぺん は行っていた。 もう、行きません。 大統領が、気に入らない。 同い年な んです。 男のくせに、整形なんかして…。 いい男になるのかと思ったら、 デンスケみたいな顔になっちゃった。 もう、竹島あげよう。 いりません。  円歌もつけます。 花緑も、つけよう。 どうせ、小さんには、なれないんだ から…。 ヤケです。 靖国神社も、やめましょう。 うるさいから、鈴本演 芸場と名前を変えて、奥に小さく靖国神社と書いておいて、そこを小泉さんが お参りすればいい。 日本人、みんなで黙っていりゃあ、いいんだ。 向うで 気がついて、国旗に火をつけて騒いだりしても、平気。 鈴本演芸場は、火事 には慣れているから。 明治、大正、昭和も、なかったことにしましょう。 大 政奉還から、すぐ小渕さんが「平成」にしたことに…。 と、ここまでまくし たてて、これは放送できないから、もう一回頭を下げます、といい、お辞儀し て「質屋庫(ぐら)」の本題に入った。

 背負い呉服屋のシュスの帯を「目の正月」と見せてもらったお光ッつァん、 10円の品を6円にするというのを、晩酌でいい気持になっている旦那に5円だ からといい、旦那の酒のグレードを落としたりして1円を捻出、手に入れた。  その帯も、質屋に行けば、番頭が貸すのは、よくて3円。 質屋の庫(くら)は、 そうした怨みがこもっている。 三番庫に幽霊・お化けが出るというので、主 が番頭に見張りを命じると、13の時から25年勤めたけれど、お暇をくれと言 い出す。 やむなく、助太刀に出入りの仕事師の熊さんを頼むことにする。 立 ち聞きしたのを「目をかけたら、増長して、行儀が悪い」と叱られた小僧の貞 吉、旦那が怒っていると熊さんを呼んできたから、熊さん、何も言ってくれる なと、自分の悪事をつぎつぎに白状する。 お店の酒樽、漬物樽、醤油樽の紛 失は、熊さんの仕業だった。 この一連が、可笑しかった。 三番庫の見張り を断る熊さんに、旦那は味噌の樽も失くなっているのだがと、承知させる。 そ して、丑満時、帯や袷やさまざまな質物が、相撲をとったりして遊び出す。 横 丁の誰やらが質に置いた菅原道真公の軸から、衣冠正しく抜け出した菅公「東 風吹かば匂い起せよ…」と詠って、「質置き主に早う利上げをせよと伝えよかし。 どうやらまた流されそうじゃ」(ここがよく聞こえなかったので、宇井無愁『笑 辞典 落語の根多』を見た)。 この落ちは、菅原道真が筑紫へ流された故事を、 マクラでふっておかないと、無理かもしれない。 でも、天満宮でなく、靖国 神社をやっちゃったからね。

昇太の「そば清」と新・正蔵の「景清」2005/07/04 06:48

 春風亭昇太の「そば清」。 新聞を見ると、世の中、嫌な事件ばかりなのに、 ここの「ぼんやり」とした感じはどうだ、モンゴルの草原のようだ。 若手と いわれて18年、少し前までの「落語研究会」は、前のほうに、メモなんかし ている嫌な人がいて、楽屋に指摘事項を箇条書きにして届けて来たりした。(落 語を聴いても最近はすぐ忘れるので、ポイントをメモしている私は、ここでビ ビッて、昇太のはほとんどメモしなかった(笑)) にこやかに、有難うございま す、勉強になりますなんて箇条書きを受け取るけれど、その人が帰れば、踏ん づける。 親の言うことも聞かないで、落語家になったのに、人の言うことが 聞けますか。 中年、45歳になったのに若手、年配の人と食事して感じるのは、 若いんだからと、ごはんを食べさせようとすること。 師匠柳昇、お囃子のお ねえさん(といってるけれど、おばあさん)と、カツ丼を食べると、昇太のカツ 丼の上には、下からカツ・ごはん・カツ・ごはんが乗ることになる。 「そば 清」は、賭け蕎麦名人清さんの噺、そばを笑いながら(あるいは、笑うように) どんどん食べるところと、ついには耳からそばが飛び出すのが、昇太らしくて、 可笑しかった。

 林家こぶ平改め林家正蔵。 まだ、こぶ蔵なんて呼ぶ人がいる由。 最近は、 弟いっ平の高座での言動が気になる。 同じ商売だから。 「林家正蔵さん」 とか「彼」とか、言っていないか、と。  プログラムの長井好弘さんによると、「景清」は正蔵が三年前に第一回読売ギ ンザ落語会のトリでネタおろしをして熱演、カミナリに打たれて見えない目が 開く「景清」の主人公定次郎と同じく落語に開眼し、新聞の評に「こぶ平、や ればできるじゃないか」と書かれた。 それで母親の香葉子さんが、正蔵襲名 の話が鈴本の席亭から来ていることを、こぶ平に伝えた因縁があるのだそうだ。  「景清」、昇太に嫌われそうな古い落語ファンは、どうしても八代目文楽のを思 い出してしまう。 香葉子さんが、定次郎の母親のように「水ごウり」をとっ ているかどうか知らないが、それに近い気持で祈っていることは確かだ。 新・ 正蔵の一層の精進を期待しておく。

「大相撲から見る日本経済」2005/07/05 09:04

6月24日の日記に書いた中島隆信さんの『大相撲の経済学』(東洋経済新報 社)を読み終わったので、さわりの「大相撲から見る日本経済」について書いて おきたい。 中島さんは、バブル経済とその後の反動という観点でも、日本経 済と相撲は重なり合う部分がある、という。 1980年代の終りから90年代に かけての日本経済は、資産価格の高騰による土地投機、消費の拡大、そして金 融機関を含む企業生産の量的拡大をともなうものだった。 しかし、それは高 度成長期にみられたような生産性の向上をともなうものでなく、1990年代初め のバブル崩壊後、深刻な不況となって跳ね返ってきた。 大相撲のバブルは、 平成になって若貴兄弟の入幕によって始まり、平成5(1993)年には二人のあい つぐ大関昇進により「若貴フィーバー」となって相撲人気は爆発した。 平成 4年春場所の新弟子検査では史上最多の151名が合格、在籍力士数も900人を 超える。 若乃花は平成12(2000)年、貴乃花は平成15(2003)年に引退し、ブ ームは過ぎ去った。 衰退に瀕した日本相撲協会は、平成8(1996)年10月境川 理事長(元佐田の山)のもと、年寄制度の改革(一般社会でいう高齢化にともなう 年金制度の破綻の問題)を目玉に構造改革に乗り出したが、失敗に終った。 バブル期に大幅に採用を増やした企業は、その後の景気低迷により過剰人員 を抱えることになってしまった。 大相撲でも、三段目力士の滞留が年々顕著 (とりわけ25歳以上が60人(約1/3)以上)になってきている。

日本はこれまで島国としての地理的な利点を生かす形で自己完結的なシステ ムを構築し、戦後の経済的繁栄を築いてきた。 しかしグローバル化が進み、 従来のシステムで蓄積されてきた人的資本(会社の中だけで通用する)では地球 規模の競争に太刀打ちできず、オープンで透明性の高いルールの下での新しい システムへの変更を迫られている。 大相撲が企業と違うところは、オープン で競争性の高いスポーツ的側面と、閉鎖的で差別化しやすい(歌舞伎のように) 文化的側面の二面を持っていることだ。 それゆえ中島さんは、あえて競争と いう危ない橋をわたらなくても、長年培ってきた歴史的遺産の価値を最大限に 生かし、文化的側面から国民の支持を得ていくことができるのではないか、と 考えるのだ。