森まゆみさんの『彰義隊遺聞』2005/07/27 09:58

 吉村昭さんの『彰義隊』に影響されて、いま森まゆみさんの『彰義隊遺聞』(新 潮社)を読んでいる。 とてもよい本で「彰義隊」の全体像が見えてくる。 知 らないことも多かった。 とりわけ「幕末三舟」「東叡山寛永寺」「栄一と成一 郎」の章。

 徳川慶喜が上野の寛永寺に謹慎した後、恭順の意を伝えるために、側近の高 橋泥舟に相談し高橋の義弟山岡鉄太郎(鉄舟)が、勝海舟の屋敷に江戸攪乱の罪 で捕われていた薩人益満休之助を伴い、官軍が江戸に迫り来る中、駿府の大総 督府の西郷隆盛の所に赴く。 山岡は六尺二寸、二十八貫(187センチ、105キ ロ)という巨漢、剣の達人だった。 西郷は山岡に降伏条件を提示、後日の江戸 城無血開城を決めた西郷・勝会談の道筋がつく。 三遊亭円朝の墓があり、こ の時期、円朝忌が催される谷中の全生庵は、明治16年、その山岡鉄舟が戊辰 の際の国事殉難者のために建てた寺であった。 明治になって、子爵となった 山岡鉄舟は「喰て寝て働きもせぬ御褒美に か族となりて又も血を吸ふ」と狂 歌を詠んだという。

 「東叡山寛永寺」という寺の江戸と幕府における位置、輪王寺宮という存在、 そして天皇家、水戸徳川家、有栖川宮家の複雑な縁のからまりあいを知った。  「彰義隊」の時の輪王寺宮(十三代、公現法親王)の前三代の輪王寺宮は、有栖 川宮家から出ている。 十三代輪王寺宮が、山岡鉄舟より前に慶喜恭順の意を 伝えるために、駿府の東征軍大総督有栖川宮熾仁親王のもとに赴くが、けんも ほろろの扱いを受ける。 輪王寺宮の側近、覚王院義観がそれを怒り、のちに 江戸城に入った東征軍の要求を再三跳ねつけたことが、上野の山の戦争につな がるのだ。