書簡にみる福沢の家族観・男女観2005/11/13 08:45

西澤さんは、福沢の女性論が社会的規範となり得なかったのには、その家族 観・男女観にも問題があったのかもしれないと、考え直すために書簡にあたる。  細かい書簡のデータなどは略すが、その結果は次のようにまとめられている。

A 書簡にみる家族のあり方。 新しい「家」の成立要件。 (1)経済的自立= 独立不羈の生計をたてることが重要。 (2)「家」は一夫一婦による夫婦ごとに 構成される。 (3)子どもが生れて成長すれば、子はまた別のひとつの「家」を 構える。 (4)一家団欒。

B 福沢における男らしさと女らしさ。 (1)男らしさ。 「其主義は確然不抜、 毫も動揺せざる様致し度」「一個の男子として自ら信して」「壱人前之男」「壮年 男児の事」など、決断力があり、清廉な「男子」らしさへのこだわりが見られ、 そのような人間像を「男子」にのみ求めていた。 (2)女らしさ。書簡には「女 子らしく」「一個之女子」「壱人前之女子」「女児の為す所」という言葉は登場し ない。

C 書簡に見る結婚観。 息子たちの大学部での教育と同列に、娘たちの「身 之片付」と書いている。 女性を「片付」「さし遣」「貰ふ」結婚。 女性は家 事をし家族の世話をするという家内での役割を述べた「身之片付」となる結婚 観は、一連の著作で展開された夫婦が対等のリベラルなものとする結婚観(結婚 後の姓は男女から一文字ずつ取って組み合わせるべきであり、それこそが新家 族の「事の実を表し出すの一法」であるという説に代表されるような)とは、対 立するもののようにみえる。 福沢の書いていることと、実際の子ども達の問 題の扱いなどに差があると批判する人もいるが、西澤さんはその差を「当り前 の範囲内」ではないか、と述べた。

上の問題に関連して、西澤さんは福沢の女性論・家族論の問題点を検討した。 相互扶助・男女の役割分担に基づいた福沢の家庭論と、守旧的な家父長的な 家族論・女性論とはどこが違うのか。 西澤さんは、東アジア世界が模索する 近代とは、儒教的価値観の中での模索であるとして、福沢の女性論・家族論に は、批判対象としての「儒教」と、法を助ける慣習として利用すべき潜在的な 儒教観念が存在する、という。 そこで福沢の中で「一身独立」と相互扶助的 「家」は矛盾しないとする。(他者から見れば、独立自尊主義と家族制度は矛盾 する) そして、福沢の女性論・家族論と守旧的な女性論・家族論との相違は、 「女大学」的生き方(自己犠牲精神)の受容に大きな差異があり、ゆえに福沢の 理論は今日的であり続けるのではないか、と西澤さんは述べた。