伊藤正雄さんの福沢研究2010/01/04 08:04

 今回の読書会に参加するに当って、伊藤正雄さんの本を書棚から出してみた。

『福沢諭吉入門―その言葉と解説』(毎日新聞社)1958(昭和33)年

『福澤諭吉論考』(吉川弘文館)1969(昭和44)年

『資料集成 明治人の観た福沢諭吉』編著(慶応通信)1970(昭和45)年

『口譯評注 文明論之概略 今も鳴る明治先覺者の警鐘』(慶応通信)1972(昭和47)年

『現代語訳―学問のすゝめ』訳著(社会思想社・現代教養文庫)1977(昭和52)年

『福沢諭吉―警世の文学精神』(春秋社)1979(昭和54)年

 読書会に行く電車の中で、『福沢諭吉―警世の文学精神』をパラパラやってい て、わかったことが二つあった。 一つは、伊藤正雄さんが1902(明治35) 年に大阪北浜で生れた、その家が福沢が学んだ緒方洪庵の適塾の東、ほんの 3,40メートル離れた並びにあった。 父(養父)徳三は、嘉永6年生れ、名古 屋から東京に遊学、明治2年に慶應義塾や攻玉社で洋学を学んだと履歴にあり (伊藤正雄さんが慶應義塾に調べてもらったところでは名簿になかったそう だ)、代言人(弁護士)となって長崎で開業した。 明治12,3年頃、後藤象二 郎が高島炭坑経営にからむ債務で、英国商人に訴えられた際に、その弁護に当 り、当時後藤から来た手紙が家に残っている。 福沢は後藤の苦境を斡旋して、 三菱に高島炭坑経営を肩代わりさせたから、その問題をめぐって、伊藤正雄さ んの父上と福沢の間に一脈の因縁があったことになる、という。

 もう一つは、国文学が専門の伊藤正雄さんが、なぜ福沢研究に入ったか、と いう問題だ。 1927(昭和2)年に東大の国文科を出て、神宮皇學館の教師に なったが、担当科目の中に国文学史があった。 明治の文学を講ずる必要上、 まず手初めに『福翁自伝』と『文字之教』を読み、その闊達自在な表現力と、 平明達意主義の文章観とに魅せられた。 それ以来、明治文学史の中では福沢 諭吉に特に多くの時間を割くよう心掛けた、というのである。 私が『福沢諭 吉入門―その言葉と解説』を読んで、福沢に魅せられたのと、まったく同じポ イントだったことになるが、それが伊藤正雄さんの著書だから、当然と言えば 当然なのだった。

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