碌山・荻原守衛と新宿中村屋夫人・相馬黒光2010/10/21 06:33

17日のNHK「日曜美術館」「碌山と“女”、それは愛と悲しみから生まれた」 (安曇野の碌山美術館)を見た。 すると途中で、鎌倉極楽寺、成就院の原照 雄名誉住職と原公泰住職が、寺宝「文覚(もんがく)上人荒行像」を、大事そ うに運んで、登場した。 成就院は昨年まで毎年、あじさいの時期に、小尾ゼ ミナールのOB会「紫陽花ゼミ」で通っていたけれど、この「文覚像」を拝見 したことはなかった。

百年前に30歳の若さで世を去った彫刻家、碌山・荻原守衛(1879(明治12) 年~1910(明治43)年)。 日本の近代彫刻に革命をもたらした碌山の芸術に は、一人の女性が深くかかわっていた。 荻原守衛は現在の長野県安曇野市に 生れ、家業の農業を手伝っていたが、病弱のため内省的で絵を描くことを好ん だ。 同じ村に住む新宿中村屋の創業者、相馬愛蔵・黒光(良)夫妻と知り合 い、4歳上の黒光の美しさと東京の女学校出の都会的な教養に、強く惹かれる。  黒光が持っていた長尾杢太郎の油絵「亀戸風景」を見たのを機に、本格的に絵 画の道を志し、1901(明治34)年から7年間、ニューヨークとパリへ美術留 学をする。 そしてパリでロダンの「考える人」を見て強く感銘を受け、彫刻 家へと転身した。 帰国後、新宿中村屋の近くにアトリエを構えた荻原守衛は 黒光と再会し、二人の関係は深まっていく。 1908(明治40年)夏、守衛は 黒光に勧められて、二人で鎌倉の成就院を訪れ、「文覚上人荒行像」を見ること になるのだが、その話はまた明日。

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