福沢の近代化構想は実現したか(3)2012/03/16 04:27

 松浦寿輝さんは、2008年12月6日の福澤諭吉協会土曜セミナー、「福澤諭 吉と「智徳の進歩」」で、つぎのような話をした。  福沢は明治8年『文明論之概略』で、智徳の進歩を主張し、聡明な相対主義 を表明した。 しかし、この福沢の主張は、よい方には受け継がれなかったの ではないか。 大きな啓蒙的なビジョンよりも、小さな意味での専門化、狭い スペシャライゼーションが生れた。 論壇はイデオロギー化し、福沢の文明史 観は、レトリカルに一人歩きして、社会的に利用される。 福沢の思想は、妙 な形で捻じ曲げられ、変質劣化して、やせ細った形にされてしまった。 それ が超国家主義や国民総動員につながる近代日本の悲劇を準備したのではないか、 と松浦寿輝さんは言う。

明治14年の政変が転機となって、啓蒙思想の現政権からの排斥が始まった。  明治22(1889)年大日本帝国憲法発布によって、立憲君主制の国家体制が確 立し、明治国家の基礎が据えられた。 井上毅(こわし)と元田永孚(ながざ ね)が協議を重ねてつくったたった350字のテクストだが、明治23年の教育 勅語の発布は、呪縛力の強い言説空間をつくり出し、その演じた役割は大きい。  天皇制イデオロギー的支配は、子供の心に入り込んだ。(福沢の思想が劣化して、 悲劇は準備された<小人閑居日記 2008. 12.13.>)

 つぎは坂野(ばんの)潤治東京大学名誉教授の「幕末・維新史における議会 と憲法―交詢社私擬憲法の位置づけのために―」(2006年12月9日福澤諭吉協 会の第100回土曜セミナー)から。 

廃藩置県で各藩の「財権」と「兵権」が中央政府に吸収された時に、「憲法」 の必要性にいち早く気づいた木戸孝允は岩倉使節団で、欧米各国の「憲法」に 焦点を定めて視察してきた。 そしてドイツ憲法を模範にすることを決めた。  坂野さんは、戊辰戦争で名を馳せた、いわば武闘派の板垣退助には「民選議院 設立建白書」など書けない、それは幕末議会論と自由民権論の連続性を示す、 とする。 憲法論抜きの幕末議会論が板垣退助らの愛国社に受け継がれ、木戸 孝允のドイツ型憲法が明治14(1881)年4月の「交詢社私擬憲法」(イギリス 型議院内閣制←馬場注記)の画期性と孤立性をもたらした。 それは幕末以来 初めての、「憲法論」と「議会論」の結合だったのである。 それがいわば「議 会論」抜きの「憲法論」(井上毅)と、「憲法論」抜きの「議会論」(板垣退助) の挟み撃ちに合った時、明治14年の政変が起こった、と坂野さんはいう。(「交 詢社私擬憲法」の画期性と孤立性<小人閑居日記 2006.12.25.>)

こう見て来ると、浮かび上がって来るのは、明治14年の政変が、大きな転 換点になって、そこでの福沢の近代化構想の挫折に始まり、『三四郎』の先生の 「この国は亡びるね」という予言が、太平洋戦争の敗戦で実現してしまう流れ である。