米山光儀さんの「「修身要領」再考」(1)2012/05/23 02:43

 5月1 5日は、福澤先生ウェーランド経済書講述記念日の講演会。 雨が上 がって栗の花の匂う三田山上には、学生が群れていた。 演説館は満員、立見 の出る入りで(小室正紀前経済学部長もあやうく立見)、米山光儀(みつのり)慶 應義塾福澤研究センター所長の「「修身要領」再考」を聴く。 米山さんは教職 課程センター教授でもあり、専門は日本教育史だ。

 〈1〉「修身要領」とは

 1900(明治33)年に発表された「修身要領」は、福沢が日清戦争後の思想 界の混迷、条約改正による内地雑居という新しい事態に対し「現時の社会に適 する」修身処世の綱領を作成することを提唱し、土屋元作、小幡篤次郎、石河 幹明、福沢一太郎、鎌田栄吉、門野幾之進、日原(ひのはら)昌造ら門下生が 編纂に当たった。 だから福沢の書いたものではないが、綱領の精神を表す言 葉として選ばれた「独立自尊」が慶應の中で定着していく、その定着に大きな 役割を果たした文書である。 前文と29条(個人道徳、男女・家族関係、社 会道徳、国民道徳、独立自尊主義の弘布)から成る。 初め学生に対する「慶 應義塾社中に示すべき道徳上の趣意書」だったのが、広く「修身要領」普及講 演などを通じ、一般の人を対象に機能していく。 「修身要領」の個々の内容 ではなく、その全体は何かを考えるのが、今日の話の趣旨である。

 〈2〉近代日本道徳教育史の中の福沢諭吉

 ○「学制」期…1872(明治5)年に制定された「学制」期(全国に大学校・ 中学校・5万数千の小学校を設置することを計画)。 小学校低学年を対象とし た修身口授の教科書(先生が読み、理解し、噛み砕いて子供達に教える)とし て、福沢の『童蒙教草』(1872年)や、ウェーランド著・阿部泰三訳『修身論』 (1874年・文部省刊)が小学教則(指導要領)に示され、使われていた。

 ○「教育令」期…1879(明治12)年「学制」を廃止し、教育令が制定され、 翌年改正教育令が出た。 「修身」は筆頭に据えられ、全学年を対象とするよ うになった。 福沢の著作『童蒙教草』『通俗民権論』『通俗国権論』、ウェーラ ンド『修身論』は、使ってはいけない本とされる。 特に、明治14年の政変 後は、儒教主義の傾向が強くなった。 福沢は『徳育如何』(1882(明治15) 年)で、儒教主義を批判し、教育はただ子供の発達を助けるための肥料のよう なものであって、知徳の根本は「祖先遺伝の能力」、「生育の家風(生育環境)、 「社会の公議輿論」であるとした。 開国以来「社会の公議輿論」は一変し、 儒教主義がそれに適わなくなっている、現在の「公議輿論」は「自主独立」で あり、その主義に従って教育を変ずべきだとした。 「公議輿論」は変化する ものだから、それに合致しない徳教は意味をなさないと、不易の道徳に基づく 教育を批判した。

 1890(明治23)年に教育勅語が発布される。 直接的批判はできない時代 だから、福沢はしていないが、1892(明治25)年11月30日の『時事新報』 社説「教育の方針変化の結果」で、明治14年来(教育勅語発布も含まれる時 代)の政府の失策の大なるものとして教育の方針を誤ったことを、厳しく批判 した。