「修身要領」と教育基本法(1947年) ― 2012/05/25 02:01
「修身要領」と教育基本法(1947年)のつながりについては、初めて聞いた ので、特に書いておきたい。 1947(昭和22)年1月、高橋誠一郎さんが、 第一次吉田茂内閣の文部大臣に就任した(同年5月25日まで)。 在任中「教 育基本法」と「学校教育法」が成立し、戦後のわが国の教育制度(六三制)の 基礎が築かれた。 5月24日に天皇陛下をお迎えして三田山上で行われた慶應 義塾創立九十年記念式典で、高橋文相は教育基本法が「修身要領」の精神と一 致していることを述べた(『慶應義塾百年史』下巻2762頁)(高橋誠一郎著『回 想九十年』にも記述があるそうだ)。 式典の後に行われた福沢先生記念講演会 では「福沢先生の帝室論」と題して講演した。
文部次官を務めた有光次郎さんは、高橋さんが「あんなこと(教育基本法) は戦前の慶應では普通のことだった」、「教育勅語との相違は、皇室の位置づけ (描かれ方)だけ」と言っていたという。
米山光儀さんの講演後、象徴としての天皇を定めた日本国憲法、教育基本法 と、高橋誠一郎さんの文部大臣就任の関係についての質問があった。 米山さ んは、武見太郎さんの回想にそれがあるとして、福沢の『帝室論』の理念と象 徴天皇制、そして教育とがリンクしており、それこそ高橋誠一郎さんが文部大 臣になった核心だと述べた。 天皇陛下が前任の田中耕太郎文部大臣に、民主 主義下の天皇制のあり方、皇室のあり方をご下問になった。 それを聞いた吉 田茂首相が驚いて、心を痛めているので、武見さんが『帝室論』を見せたとこ ろ、それを熟読して、小泉信三さんに文部大臣を頼もうということになる。 小 泉さんが戦災の怪我が治っていなくて断り、じゃあ高橋誠一郎さんにお願いし てくれとなった。 (この間の話は、「高橋誠一郎文部大臣と『帝室論』」<小人閑居日記 2007. 6.20.>その他に書いたことがあった。)
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