鎮魂と供養の民俗芸能、自然との共生 ― 2012/10/09 01:37
赤坂憲雄さんの「東北学、新たなステージへ」の続き。 被災地の〈あるく・ みる・きく〉の旅で、ほうぼうで瓦礫の海の中に鳥居と森と神社が生き残って いる姿を目にした。 高台の神社に避難して助かり、そこを避難所にした人々 の話を聞いた。 震災から2カ月も経たぬ時期に、民俗芸能の復活の動きが始 まっていた。 南三陸町の水戸辺(みとべ)では、海辺から数キロも流された 瓦礫の中から、この地に伝承された鹿(シシ)踊りの衣装や太鼓を探し出し、 避難所で踊った。 まさに鎮魂の踊りとなった。 ほかの地域でも、剣舞や虎 舞などの民俗芸能が一斉に復活を遂げて行った。
鹿の字をなぜ「シシ」と読むかは大切な問題だ、ここは漁村だが山が背後か ら迫る、海と山の間にひらけた小さな世界である。 昭和30年代まで、人々は 山に入って炭焼きをし、狩猟で暮らしていた。 人間が狩猟して食べる肉のこ とを「シシ」と言う。 いたる所に「鹿踊供養塔」がある。 鹿を仕留めて食 べてきた人々が、鹿の魂を慰めるためだ。 昭和30年代のエネルギー革命で、 養殖漁業にかわっていたのだ。
震災の夏、お盆の季節には、鎮魂と供養のテーマがあふれていた。 いたる ところに犠牲者たちを鎮魂するための小さな霊場や霊地が生まれていた。 自 動車教習所、大川小学校……、祭壇ができ、花やお菓子や飲み物が供えられ、 壊れた携帯電話、写真、別れを告げる言葉を書いた紙、何人もの名前…。
コミュニティを支えているのは、神社と寺だった。 地域の精神的な拠りど ころであり、実質的にも集会所や公民館の役割を担っている。 高台にあって 生き残った神社と寺はみな、ことに初期は避難所となり、救援物資の受け入れ 先となって、コミュニティの中核的施設であることをさりげなく示した。
伝統的な民俗芸能はみな、地域の神社や寺と結びつき、その祭や行事の一環 として受け継がれてきた。 三陸の鹿踊り、剣舞、虎舞もそう。 その掲げる テーマは、死者への鎮魂・供養、魔除けや厄払い、収穫の祈願と感謝といった ものだ。 それはまさしく日本人であるわれわれにとっては、宗教的行為その ものではなかったのか。
東日本大震災はわれわれに、人間はいかにして自然の荒ぶる力に向かい合う べきなのかという根源的な問いを突き付けている。 生や死について深く考え ることが求められている。 水戸辺の「鹿踊供養碑」には「この世の生きとし 生けるものすべての命の供養のために踊りを奉納せよ」と刻まれている。 そ こには、人間だけでなく鳥獣虫魚から草木にいたるまで、いや、死者や、神仏・ 精霊など「眼にはみえないものたち」までも含んだ共生の世界があった。 科 学技術や経済力によって、すべての自然災害を防ぐことはでないことを思い知 らされた。 人は自然への畏敬を忘れずに、新しい人と自然との敬虔な付き合 い方を学んでいく必要がある。 防災から減災へ。 それはたぶん、日本人が 受け継いできた芸能や芸術、そして文化のなかに、すでに準備されている思想や 哲学のかけらであったにちがいない。 と、赤坂憲雄さんは熱を込めて語った のだった。
最近のコメント