「徳川綱吉は名君だった!?」 ― 2012/11/14 06:52
「お犬様騒動 隠された真実~徳川綱吉は名君だった!?~」が、全体として 解説したのは次のようなことだった。 徳川綱吉は、世の中を変えてやるとい う強い意志を持った将軍だった。 その根っこには人命尊重があった。 それ までは「切り捨て御免」の時代だった。 天和2(1682)年、綱吉は、いわば 所信表明演説で、忠孝に励み、夫婦兄弟親戚が仲良くし、召使いまで憐みなさ い、人間を含めたすべての生き物を憐れみなさいと説いた。
「生類憐みの令」は一つの法令ではなく、25年間に出された130余りの法令 だった。 貞亨2(1685)年の、「将軍が御成りの道に犬猫が出てもかまわない、 つないでおかなくてもよい」に始まり、犬だけでなく、生き物全体、魚釣り、 鳥の捕獲、虫の飼育、どじょう・うなぎの販売の禁止などと、次第にエスカレ ートした。 最初は生き物や生命を大切にしろという道徳だったのが、だんだ ん役人達が自分の有能さをアッピールするために、鵜の目鷹の目で違反者を見 つけて手柄にするという忠誠の競争になって、数々の悲惨な事例が生み出され てしまった。
綱吉は天和3(1683)年、武家諸法度を改正した。 「文武弓馬の道専らあ い嗜むべき事」を、「文武忠孝を励まし、礼儀を正すべき事」に変え、武士のあ り方に変化を求めた。 武士から意識改革をしようとした綱吉は、まず地方か ら始め、九州の代官を皮切りに、代官や大名の行政を調べさせた。 そして全 国の代官の8割を更迭、江戸から信頼のおける人材を派遣して交代させ、中央 のコントロールを強めた。 さらに落ち度のあった40以上の大名を処分、改 易(領地没収)、減封(領地削減)し、将軍の権威を知らしめ、中央集権を推進 した。
綱吉は、幕府内部の人事改革にも着手する。 病弱だった四代家綱の時代は、 世襲のしっかりした老中の政策を承認するだけの30年だったが、綱吉は自ら 主体的に政治を行うため、家柄にこだわらず能力のある者を、側近・側用人と して取り立てる。 世襲でなく「能力主義」で、優良な官僚をつぎつぎと抜擢 した。 強い将軍と、有能な官僚という組み合わせだ。
綱吉は、暗君どころか、社会改革を実行して日本人の文化を押し上げた大変 な功労者、名君だったのではないか、というのが番組の結論だった。
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