人情味あふれる『平家物語』をしみじみと読む2016/03/12 06:36

 林望さんは『平家物語』に親炙していた、と言う。 教科書は合戦場(ば) ばかりだが、ほかに思わず涙が出る場面がいっぱいある。 もともと琵琶法師 が歌い語る、吟遊詩人の世界。 一つのエピソードが短く、30分ぐらいで語れ る。 対象は一般大衆で、軍記、芸能の台本、『曽我物語』も同じ。 『太平記』 は講釈師の祖先、作り手と送り手が未分化で、聞き手は不特定多数。 語り芸 だから、詳しく語り、『源氏物語』のような省略はないから、勅撰集は知らなく てもいい。 仏教説話が引かれているのは、僧侶が語り手だったから。 鎮魂 の曲で、男の世界を描き、漢詩文の文脈。 悲壮感、孤独感を中国文学から学 んだ。 文体的な違いにも、楽しさがある。 講釈(講談)と同じで、何を言 っているのか、必ずしもわからなくてもいい、何となくいい(パヴァロッティ の歌詞と同じ)。

 講談の速記本(大日本雄弁会講談社などの)に見られる講釈の世界では、敬 体(ですます調)と常体(だ・である調)が混合している。 語るのに気合が 入ると、常体になる。 『謹訳 平家物語』では、故意に混合体で訳した。 (こ こで、梶原景時が一の谷の戦いで、深入りした息子源太景季を引き抱えて脱出 する場面を朗読。 ローン・レンジャーさながら救いに行く、と。) 講釈体と いう文体だが、子供の頃から落語、講釈、浪花節が好きだった。 惻惻(そく そく)たる人情の機微があり、ユーモラスなところもある。 「物語」の「物」 は、もののけ、スピリット、亡き魂を慰める。 親子の情愛、夫婦の愛情など を描き、人物がワンパターンでない、すべてが個性を持つ。 平家の公達も、 それぞれ違う。 能登守教経(のりつね)は強い、だいたい勝つ、スーパーマ ン。 義経は、小男、色白、パッとしないが、ゲリラ戦の名手。 一番嫌な奴 が、頼朝。 敦盛は笛の名手、美しい少年、腰に小枝(さえだ)という笛を差 している。 一の谷の戦いで、熊谷直実に討たれたが、我が子と同じ年頃だっ たので、熊谷は出家の志を懐いた。 経正(つねまさ)は、琵琶の名手。 と いうように、公達のパーソナリティーにリアリズムがある。

 女性が主人公の物語として、「巻一 祇(「ネ氏」)王(ぎおう)」のプリントの 原文を見せながら、謹訳を朗読。 祇王は、白拍子。 扇で拍子を取るだけの 芸能者。 遊女(遊行女)の一種。 芸能者だから、太政大臣(だいじょうだ いじん)の所へも推参(勝手に押し掛けること)が可能。 能「望月」の仇討 は、芸能者に扮する。 清盛は、祇王を、もてあそびもの、愛人として召し抱 える。 妹・祇女(ぎにょ)、母・刀自の三人でワンセット。 加賀国から仏御 前という16歳の天下の美人が京へ出て来て、西八条の屋敷で美しい歌と舞を 披露すると、清盛は一目見て、祇王を追い出す。 しかし、仏御前が一人で退 屈していると、清盛は慰めろと祇王を呼び出す。 仏御前は耐え難い。 祇王、 祇女、刀自の三人は、嵯峨野で出家する、現在の祇王寺。 『平家物語』は、 親子の情が経糸(たていと)になっている。

 林望さんはその後、喜界ヶ島に流され一人になった俊寛僧都を稚児の有王が 訪ねる「巻三 有王(ありおう)」と「同 僧都死去」、「巻七 忠度都落(ただ のりみやこおち)」、「巻十一 大臣殿被斬(おほいとのきられ)」を朗読した。  『平家物語』は、人情の自然や、人間の心を描き切った、と述べた。