金文京さんの『図書』連載「東京碑文探訪」2024/06/19 06:35

 福沢諭吉協会の機関誌『福沢手帖』に長く「福沢諭吉の漢詩」を連載している(2023年12月の199号が第53回で「居合の詩―福沢の健康法」)金文京さんが、岩波書店の『図書』の1月号から「東京碑文探訪」を連載している。 『図書』の肩書は、(きん ぶんきょう・中国古典戯曲小説)。 コロナ禍で日常生活が見直されたものの一つに散歩があり、運動のためではなく、家の近くの公園や町の風景を気ままに見て歩く、文字通り歩を散らす散歩になった。 東京の景観は近年大きく変化したが、比較的変わらないのが墓地で、東京に名刹は少ないが寺の数はきわめて多い。 そこには幕末から明治、大正にかけ、主に漢文で書かれた石碑が多く残されている。 幕末明治は漢文の碑文が流行した時代だった。 大多数は知る人もないまま、朽ち果てるに任されている。 歴史遺産を保存、記録することは現下の急務で、中には意外に面白いものがある。 まずは東京の墓地、寺町の代表である谷中からはじめてみようというのである。 漢文の先生が読んでくれるのだから、これは、とても興味深い。

1月号の「其の一」は、「谷中本行寺「斎藤歓之助先生碑」」。 日暮里駅の西口を出てすぐに、月見寺で知られる本行寺がある。 山門を入って右手に太田道灌にちなむ「道灌丘之碑」、墓地には幕末明治の永井尚志の墓碑、江戸末期の漢詩人、書家の市川寛斎、米庵の石碑がある。 いずれもよく知られているので、金文京さんは「道灌丘之碑」の奥にある「斎藤歓之助先生碑」を紹介する。 まず、碑文(句読点を加え、行頭を数字で示す)と、訓読(碑文の旧字体は常用字にする)を出してくれる。

斎藤歓之助は、北辰一刀流玄武館、鏡新明智流士学館とともに幕末江戸三大道場と称せられた、神道無念流練兵館の斎藤弥九郎、篤信斎の子である。 篤信斎は越中射水郡の農民の出で、砲術普及で有名な幕臣、江川英龍(太郎左衛門)の手代となり、維新前後に活躍した立志伝中の人物である。 門弟には塾頭となった桂小五郎をはじめ、高杉晋作、伊藤博文、井上馨、品川弥次郎など長州藩の錚々たる面々がいる。 歓之助も、鬼歓の異名をとった剣客で、嘉永4年、九州長崎の大村藩に召し抱えられ、剣術師範兼者頭として藩士を指導した。 大村藩は三万石足らずの小藩ながら、戊辰戦争では官軍の一翼を担って奮闘し、戦後は薩長土佐につぐ三万石の賞典禄を得た。 藩士の渡辺昇(のぼり)は、歓之助に学んだ後、江戸に出て桂小五郎のあと練兵館の塾頭となり、坂本龍馬と桂の間を仲介して薩長同盟を成就させ、龍馬暗殺の前日にも会見している。 維新後は大阪府知事などを歴任、子爵、貴族院議員となる。 その兄の渡辺清は、戊辰戦争で大村軍を率いて各地に転戦、江戸開城をめぐる勝西郷の談判では隣室にいたとされ、維新後は貴族院男爵議員となった。 もう一人の藩士、楠本正隆は、大久保利通の側近となり、東京府知事、衆議院議長を歴任、やはり男爵に叙せられた。 この三人が碑文の「藩臣の公に奉じて維新の勲業に翼賛せし者」である。 しかし歓之助は、大村藩在任中に中風を患って江戸にもどり、以後まったく活動できないまま死を迎えたのである。

碑文を撰述したのは長与専斎、やはり大村藩士で、大阪の緒方洪庵の適塾で福沢諭吉のあと塾頭となり、福沢とは終生の親友、維新後は衛生局長として近代医療衛生制度の基礎を作った。 「衛生」という言葉も専斎の造語とされる。 専斎が歓之助の碑文を書いたのは、専斎の姉、以智子が歓之助夫人であった縁による。

歓之助が明治の世に活躍できなかったのは、中風のせいばかりではないという。 幕末の大村藩でも、佐幕派と倒幕派の争いがあったのだ。 それはまた、明日。

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