幕末の大村藩、大村騒動と長与専斎 ― 2024/06/20 07:04
斎藤歓之助が剣術師範兼者頭を務めていた幕末の大村藩では、佐幕派と倒幕派の争いがあり、慶応3年正月、家老の針尾九左衛門が襲撃され重傷を負い、藩随一の俊才で、江戸の昌平黌に学び、松本奎堂(のち天誅組総裁)、岡鹿門(仙台藩士)らと共に勤皇思想を鼓吹した松林飯山(碑文の松林伯鴻)が斬殺され、それを機に佐幕派が粛清され、多くの処刑者を出した。 いわゆる大村騒動である。
ただしこの事件は、外山幹夫『もう一つの維新史―長崎大村藩の場合』(新潮選書)によると、倒幕佐幕の争いではなく、実は渡辺昇(のぼり)一派が藩の功臣旧族を一掃するための陰謀で、松林伯鴻を斬ったのは渡辺昇であったという。 歓之助もその巻き添えをくって排除されたらしい。 事件の真相は、渡辺らが維新後、貴顕となったため、旧大村藩関係者の間では長く秘せられた。 渡辺昇はのち山岡鉄舟と明治の剣道界を二分する重鎮となったが、歓之助はそれに与っていない。 専斎が碑文で大村騒動に一切触れないのは、おそらくそのためであろう。 ただ騒動の犠牲となった松林伯鴻と歓之助を藩主の信認する文武の代表として挙げ、渡辺ら「維新の勲業に翼賛せし者」と対比しているところに、わずかに彼の感慨が示されている。 専斎自身は長崎にいたため騒動には関与しておらず、維新後も渡辺ら勲臣とは交際がない。 ただ専斎と渡辺昇、楠本正隆は同年で、藩校五教館の同門であった。 外山氏は、専斎の明治政府任官には、渡辺兄弟や楠本の了解があったとする。
専斎に碑文を依頼した甥の斎藤満平は、明治31年すなわち父歓之助の没年、麹町(おそらく練兵館の跡地)に薬局を開いた。 34年版『日本東京医事通覧』の麹町区薬剤師にその名があり、21年医術開業試験合格者として登録とある。 医術開業試験や薬剤師の制度を整備したのは、むろん衛生局長の長与専斎であった。 専斎の五男で白樺派の作家長与善郎は、「自分の父方の親戚に斎藤満平氏といふあの有名な薬局の先代がゐる」、また専斎夫人は「その人のことをよく満平さん満平さんと呼んで」いたと述べており、両家は明治以降も親戚付き合いをしていたことがわかる。 斎藤満平薬局はその後、有楽町、丸の内に出店、帝国ホテルにもマンペイドラッグを開き、薬品だけではなく化粧品やワインも扱い、大正8年には日本ではじめてコカ・コーラを輸入販売、東京では有名な薬局であった。
一方、専斎の長男、長与称吉は、内幸町で長与胃腸病院を経営、胃潰瘍で吐血した夏目漱石が入院したことは、漱石の「思ひ出す事など」に詳しい。 従兄弟同士の医院と薬局にも、さだめし交流があったであろう。
金文京さんの『図書』連載「東京碑文探訪」、「其の一」「谷中本行寺「斎藤歓之助先生碑」」だけでも、このように興味深い情報満載である。
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