『新編 虚子自伝』(岩波文庫)を読む<等々力短信 第1180号 2024(令和6).6.25.>6/22発信2024/06/22 07:12

 生誕150年の高浜虚子『新編 虚子自伝』が岩波文庫で刊行された(岸本尚毅編)。 昭和23(1948)年虚子74歳の菁柿堂版と、昭和30(1955)年81歳の朝日新聞社版をまとめて編集している。 まず「需(もと)めらるるままに、ごく平凡な人間のことをごく平凡に簡単に述べてみましょう」と始まる。 自伝というもの、なかなかこうはいかないだろう、どうしても自慢話になりがちだが、みずから信じてきた道を歩んできた自由人としての虚子の、ありのままが語られている。

 伊予松山藩士の父池内(いけのうち)庄四郎政忠は剣術監、御祐筆だったが、一旦朝敵となった廃藩置県で、松山から三里「西の下(にしのげ)」に帰農したけれど、武士の農業だった。 清(虚子)8歳の時、一家は松山に帰り、祖母が亡くなったので、虚子はその生家高浜の姓を継いだ。 20上の長兄は県庁下級官吏となって生計を支え、17上の中兄は師範学校、15上の三兄は靴職工を志し、清は近所の小学校に入った。 中学ではトップの成績だったが、工科とか法科とか軍人を目指す者が多い中で、一人文科を志願する。 同窓の河東秉五郎(碧梧桐)から正岡子規のことを聞き、手紙を書く。 子規は「請ふ国家の為に有用の人となり給へ、かまへて無用の人となり給ふな。真成の文学者また多少の必要なきにあらず。」と返信する。 京都の第三高等中学校から、学制変更で仙台へ行くがすぐ退学、東京でも京都と同じく碧梧桐といた下宿が梁山泊のようになり、俳句に没頭した。

 日清戦争に記者として従軍し大喀血をした子規を虚子が看病した。 そのあと道灌山で子規から後継者になれ、書物を読めといわれて、決裂した。 虚子は、生来の性質が呑気にやってゆく風で、母に「危ないところに近よるな」といましめられたままの臆病の弱虫、22、3から74歳の今日まで、書物より自然をよく見、自然を描くこと、俳句を作ったり、文章を書いたりして文芸に遊びつつ、荘子のいわゆる「踵で息をする」というような心持でやってきた。 仏道修業に定心散心という二つの道があるという。 定心は三昧ともいい、懸命に修業すること。 散心は、正常心でいて、それで仏の道を忘れずにいること。 虚子はどちらかというと、後者を選ぶものである、と。

 昭和30(1955)年「ホトトギス」700号記念に、自選した48句に感想を付け加えたものがある。 虚子の代表句がすべて含まれているが、実はこんな句もあった。

<悔もなく誇もなくて子規忌かな><障子しめ自恃庵(じたいあん)とぞ号しける>何者にもわずらわされず何者にも動かされず、ただ自ら恃む。<懐手して論難に対しをり>戦後、新聞記者が必ず戦争は俳句に影響したかと聞いた。影響されません、と答えた。<萩を見る俳句生活五十年><恵方とはこの路をたゞ進むこと>