斎藤孝さんの現代語訳と、私の薦める福沢本 ― 2022/02/20 07:44
テレビにコメンテーターとして出ているのを見る斎藤孝さん、読んだことはないが、その著書の広告を見て、私と同じようなことに関心があり、同じようなものを書く人なのかと思っていた。 あらためて検索すると、べらぼうな数の著書がある。 その中で、例えば、『斎藤孝の一気読み 日本近現代史』(東京堂出版)、『まねる力 模倣こそが創造である』(朝日新書)、『別冊100分de名著 読書の学校 斎藤孝特別授業 中勘助 銀の匙』(NHK出版)、『夏目漱石の人生を切り拓く言葉』(草思社文庫)、『新聞は学力を伸ばす』(朝日新書)、『読書する人だけがたどり着ける場所』(SB新書)、『10分あれば書店に行きなさい』(メディアファクトリー)などなどだ。
そこで、私の推薦した福沢諭吉に関する本10冊だが、結局、これらの本によって福沢諭吉の面白さ、魅力、深さに触れていくことになった、高校時代以来愛読してきたものばかりになった。 先輩は息子さんに探してもらったが、絶版が多かったということであった。
藤原銀次郎著『福澤先生の言葉』(実業之日本社・昭和30(1955)年)
伊藤正雄『福沢諭吉入門 その言葉と解説』(毎日新聞社・昭和33(1958)年)
松永安左エ門『人間 福澤諭吉』(実業之日本社・昭和39(1964)年)
小泉信三『福沢諭吉』(岩波新書・昭和41(1966)年)
桑原三郎『福澤先生百話』(福澤諭吉協会叢書・昭和63(1988)年)
富田正文『考証 福澤諭吉』上・下(岩波書店・平成4(1992)年)
西川俊作・西澤直子編『ふだん着の福澤諭吉』(慶應義塾大学出版会・平成10(1998)年)
北岡伸一『独立自尊 福沢諭吉の挑戦』(講談社・平成14(2002)年)
慶應義塾編『福沢諭吉の手紙』(岩波文庫・平成16(2004)年)
平山洋『福澤諭吉 文明の政治には六つの要訣あり』(ミネルヴァ書房・平成20(2008)年)
「政府は人望を収むるの策を講ず可し」と結論 ― 2022/02/01 07:16
この大久保との会見は、『大久保利通日記』によれば明治9年2月27日のことで、大久保・伊藤との三者会談は、それより後のことと考えられる。 福沢の明治8年9月からの「覚書」というメモ帳で、『学者安心論』の脱稿は明治9年2月19日とわかっている(『福沢諭吉選集』第12巻13頁)。 『学者安心論』は、政府と人民の役割分担だった。 「明治7、8年の頃」と福沢がしたのは、記憶の混同であって、明治7年1月の『学問のすゝめ』第四編「学者の職分を論ず」の議論が頭にあったからではないか、と平石さんは考える。
明治7、8年は、福沢が民会設立をプッシュしていた時期で、官民調和論の起源とするのは適当でない。 平石さんは仮説だが、全集の編者が「政府は人望を収むるの策を講ず可し」(『福澤諭吉全集』第20巻156頁)と名付けた明治9年3月の廃刀令を先日とした論考は、福沢が大久保・伊藤との三者会談のために用意したメモではないか、とする。 政府に助言している内容で、薩長土肥の独占を廃して適材適所、公平を期し、上等社会の学者流を採用せよ。 軍事、裁判、租税だけを政府がやればよい、政府が民間がやるべき事業に手を出し過ぎる。 内務省の強大、勧業、大蔵省は為替を一手に、工部省の学校や警察の建築など。 政府主導の文明開化はやめなさい、人民の領分を残して自由に働かせれば、官途に熱中奔走する者も減り、官私の不和も止まるだろう。 言論の自由は大事だ、讒謗律、新聞条例を撤廃して、新聞雑誌の衆議輿論の力を借り、間接的に政府を助けて国安を謀るほうがいい。
「政府は人望を収むるの策を講ず可し」は、大筋で『学者安心論』と一致しており、ワンセットのものと考えられる。 政府と人民は、両者が協力して、わが国の独立と文明化を進めるべきだ、としている。
福沢の官民調和論の起源 ― 2022/01/31 07:09
『福澤諭吉全集緒言』「分権論以下」(『福沢諭吉選集』第12巻202頁)に、自分の官民調和論は、明治10年刊行の『分権論』でも、明治15年からの『時事新報』論説でもなく、それより前からあった、とある。 明治7、8年の頃だったか、大久保利通内務卿、伊藤博文と三者会談で、「余の説に、政府は固く政権を執り、時としては圧制の譏(そしり)も恐るゝに足らずと度胸を極めながら、一方に、民間の物論は決して侮るべからず云々と話したることあり。」 又それ以前の明治初年に鮫島尚信宅で大久保と話した、「大久保氏の云ふに、天下流行の民権論も宜(よろ)し、左れども、人民が政府に向て権利を争へば、又之に伴ふ義務もなかる可らず云々と述べしは、暗に余を目して民権論者の首魁(しゅかい)と認めたるものゝ如し。」
「依(よっ)て余は之に答へ、権利義務の高説よく了解せり、抑(そもそ)も自分が民権云々を論ずるは、政府の政権を妨ぐるに非ず、元来、国民の権利には政権と人権と二様の別あり、自分は生れ付き政事に不案内なれば、政事は政府にて宜しきやう処理せらる可し、唯人権の一段に至りては、決して仮(か)す可らず、政府の官吏輩が、馬鹿に威張りて平民を軽蔑し、封建時代の武家が百姓町人を視るが如くにして、人生至重の名誉を害するのみならず、其実利益をも犯さんとするが如き、万々是に甘んずるを得ず、左れば自分の争ふ所は、唯人権の一方のみなれども、今後、歳月を経るに従ひ、世に政権論も持上りて、遂には蜂の巣を突き毀したるが如き有様になるやも計られず、其時こそ御覧あれ、福沢は決して其蜂の仲間に這入(はいり)て飛揚を共にせざるのみか、今日君が民権家と鑑定を附けられたる福沢が、却(かえっ)て着実なる人物となりて、君等の為めに、却て頼母しく思はるゝ場合もある可し、幾重にも安心あれと、恰(あたか)も約束したることあり。」
「政府の虚威を廃して、官吏の態度を改むると共に、国務の為政権を当局者に一任して、自由自在に運動せしめ、人民も亦(また)、深く文明の教育に志して政治思想を養ひ、政府と相対して、譲る所なく、共に国事を分担して国運万歳ならんことを祈るのみ。」
明治9年末執筆の『分権論』 ― 2022/01/30 07:45
③明治9年末執筆の『分権論』(『福沢諭吉選集』第5巻6頁)。 地方自治の政体論。 明治9年10月の士族の反乱(神風連の乱、萩の乱、秋月の乱)が契機、士族の国事に関する気力を再評価。 士族をまず、維新政府の役人、在野の開化派(民権家)、守旧派の三者に分類し、この相互対立によって反乱が起きているとしたうえで、これを力によって撲滅するより、士族の方向を一(いつ)にし、これを「変形」して「改進」に導くべきだと主張した。 この「変形」の方策として提示されたのが地方分権であり、「国権」を「政権」(立法、軍事、外交、徴税、貨幣鋳造など)と、「治権」(警察、道路・橋梁・堤防の営繕、学校・社寺、衛生など)に分け、「政権」を中央集権化し、「治権」を地方ごとの事情に応じて実施すべきだとした。 地方に出来ることは地方にとし、「治権」を士族層が担うことを提案した。
そこで参照されたのが、スペンサーの『第一原理』やトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』(初めは小幡篤次郎から教わる)などだった。 中央の政府が「政権」を、地方の人民が「治権」をとり、相互に助け合ってこそ国家の安定が維持できる。 こうした地方自治や中央地方関係が良好な国として英米を念頭に置き、西欧の自治都市にみられるミドル・クラスに該当する存在として期待したのが、士族であった。
『分権論』は、福沢が初めて日本の政体論として示した画期的なものだった。 国内情勢の変化に応じて、新しい見立てを提示したもので、論理内在的発展として評価したい。
明治9(1876)年2月の『学者安心論』 ― 2022/01/29 07:14
②明治9(1876)年2月の『学者安心論』(『福沢諭吉選集』第3巻178頁)。 明治8(1875)年6月の讒謗律、新聞条例など、言論の自由の抑圧で、多くの新聞記者などが処罰された。(馬場註・『民間雑誌』は、明治8年6月の「国権可分の説」の第12編でいったん終刊(讒謗律との関係か)、明治9年9月『家庭叢談』となり、明治10年4月新聞の形態の(再刊)『民間雑誌』となる。) 福沢は政府に鉄槌を下し、言論の自由を支援するため、『学者安心論』を書いた。 学者とは、学校での教育、著述、演説などを「領分」とする人々。
人は旧は良くて、新は悪いと言いがちで、短所を見て、長所を見ない。 これは心情の偏重というもので、近日、政治上にも表れている。 天下の人心は既に改進に向かっているとはいえ、多くの人民は昔のままだ。 改進は上流に始まり、下流に及ぶものなので、改革が下流に届いていない。 改革派は、政府と一緒にやるべきだ。 人民の政、古くから家政という熟語もある、非政治的領域での活躍を求める。 明治7年1月の『学問のすゝめ』四編「学者職分論」を継承し、政は政府の職分だが、『学者安心論』は民間にも政治の要素があるとする。 政府は裁判・軍事・徴税、民間は貿易・流通・開墾や運輸を通して「政」に参加。 両者が適切に運用され、支え合うことによって、「一国の文明」が進歩する。 学者が政事にばかり関心があり、自らの役割に目を向けていない。 民権論者は政府に不平を述べてばかりいる。 両者は「改進」という方向性においては一致すべきだ。
改進派の内部紛争から、政府の守旧派と手を握って、反動へ向かうのを心配している。 国政参加の主張は、『学者安心論』では一歩後退している。 急進派説得の苦肉の策として、間接的な政府との接触を説いている。 直接論が、明治9年末執筆の『分権論』である。
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