二代目堀越角次郎 ― 2006/01/13 07:45
二代目堀越角次郎は、天保10(1839)年生れ、上州多故郡吉井村(現群馬県多 野郡吉井町)のマル文本家の次男、幼名茂三郎、嘉永4(1851)年江戸に出て、家 業のマル文大伝馬町店に従事し、元治元(1864)年初代堀越角次郎の婿養子とな り、明治12年、二代角次郎を継承した。 後年、福沢が書いた弔文(「慶應義 塾学報」第一号)によれば、福沢とは少壮の時期から面識があった。 講演には なかったが『福澤諭吉書簡集』第六巻“ひと”には、明治元年11月3日、た またまマル文に止宿した近江商人小杉元蔵は、福沢が大伝馬町店を訪れ、茂三 郎に西洋の事情について語るのを傍聴し、夜分には茂三郎から『西洋事情初編』 を借りてその「政治」の項を筆写したことを日記に記している(佐藤誠郎(しげ ろう)『幕末維新の民衆世界』岩波新書)、とある。 福沢には二代にわたって 傾倒し、親戚づきあいをした。 人形町通り界隈の新興織物問屋は、20代、30 代の若い経営者たちで、茂三郎は彼らに福沢に学んだ話をし、それが若い人た ちの心の支えになった。 明治16年~33年の慶應幼稚舎生徒の父兄には日本 橋織物問屋が多く、生徒数142名の内、堀越角次郎長男、堀越とともに有力だ った日比谷平左衛門三男・五男など18名を数えるそうだ。
明治10年12月に出版された福沢の『民間経済録』はよく売れて、版木もぼ ろぼろになっていたのを、二代目堀越角次郎が、明治25年私費で再版した。 白石先生は、『民間経済録』は「経済原論」に使えるいい本で、物価、貨幣、金 利、財政、保険、銀行、運輸交通、公共事業まで易しく解説しており、官尊民 卑に屈する商人根性を戒め、実業人の心得として、経済に大切なものは1.智恵、 2.倹約、3.正直、と説いている、と述べた。 角次郎はそれを友人知己、問屋 仲間に配ったほか、吉井の小学校の教科書に使った。 白石先生は、自分も教 師をしたから知っているが、教科書は学生生徒に学問を嫌いにしちゃあいけな い、また親がそっぽを向くような教科書じゃあいけない、親が喜んで読むよう な平易で面白い本でなくては、と話した。
二代角次郎は、モスリンの国産化にも挑戦する。 明治20年代モスリン市 況が崩落し、その対策として同じ洋反物問屋の先駆者杉村甚兵衛とはかり、問 屋仲間の組合「モスリン商会」を設立する。 その折に福沢の推薦で支配人に 迎えたのが、後に三越の初代専務となった日比翁助で、「モスリン商会」はモス リン相場の下支えに成功し、角次郎は業界から厚い信用を得る。 しかし輸入 では色づけの注文から現品到着まで日数がかかることもあって、次いで明治28 年には、初の国産モスリンメーカー「東京モスリン紡織株式会社」を杉村と設 立、三井物産がその三分の一の出資を決定したのは、角次郎の財力と信用、杉 村の事業経験によるものだった。 だが会社が出来る直前、二代目堀越角次郎 は亡くなる。 享年57。 福沢の書いた墓碑に「商事に敏なると同時に、特に 西洋文明の学説を悦び、畢生重んずる所は独立不羈の一義」、居住の日本橋区の 学校教育を率先して助成し、慶應義塾にも巨額の寄付をして、その学事を奨め たとある。
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