その後の堀越家と実業人の心得 ― 2006/01/14 06:57
二代目堀越角次郎の長男直治郎は、明治4年生れ、明治19年11月、数え年 16で幼稚舎に入塾(福沢の和田義郎幼稚舎長宛の手紙に「祖父母育ちにて世間 知らず、直に本塾は如何と父母の婆心、是非共幼稚舎の方へとの懇望」とある) した。 福沢は「直さん」と呼び、鎌倉や箱根に遊ぶ福沢一家と、直治郎がい っしょに行動しているのが福沢書簡に見える。 20歳で学窓を離れ家業に従事、 23歳で渡米もしている(明治26年7月清岡邦之助(福沢の三女しゅんの夫)がア メリカのシカゴで直治郎や岡本貞烋(交詢社事務局長)に会ったという福沢書簡 がある)。 二代目が明治28年に亡くなると、直治郎は三代目堀越角次郎を襲 名、東京モスリンなどの経営に当っていたが、明治29年26歳の若さで夭折し てしまう。 残された嗣子は四男の善七で、11歳に過ぎなかったので、堀越家 は明治30年呉服織物問屋を廃業、資産管理に専念することになる。 明治40 年の東京市大地主番付で「堀越角次郎」は48,087坪とある。(『日本橋町並み 商業史』、白石先生が地籍台帳で調べた明治45年は74,428坪。 今日、人形 町通りに面してある「丸文株式会社」は、以上述べてきた堀越だそうだ。)
白石孝先生は、結論として堀越角次郎の成功の要因に関連し、福沢の『実業 論』から実業人の心得・三か条を、味わうべき言葉として述べた。 (1) 知識見聞を広くして内外の事情をつまびらかにし、時勢の進退に注意して、 機会をつかめ。 (2)気品を高尚にして、約束を重んじること。 (3)事物の範 囲を決め、なるべく規則によって進退し、みずから犯すべからざる範囲を設け て、みずからこれを犯さず、また他をして犯さしめざること。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。