権太楼の「芝浜」2006/01/01 10:02

 高浜虚子の名句をもじれば「去年今年貫く棒のマクラかな」。 棒は某、柳家 権太楼。 小さんは、弟子達を連れて中華料理店(目白の“揚子江”)などに行 くと、料理をいやというほど取るのだそうだ。 それがだんだん下に回ってく る。 下から二番目の前座だった権太楼は、いやというほど食べさせられた。  食べないと、しくじる。 一応終ったところで、さらにヤキソバ、餃子、チャ ーハンを取る。 その後、仕上げにラーメン。 それが分かっているから、あ らかじめ厨房に前座二人で麺の少ないのを二つ頼んでおいた。 三回くらいす くうとなくなる、藪蕎麦みたいなやつを。 厨房はわかっているが、ウェート レスがわかっていないので、それが小さんの所に行った。 なんだこれは、大 盛にしてやれ、若いのがいるんだ。

 そこで「芝浜」、魚屋の熊さんが、芝の浜で財布を拾った夢を見てから、三年 目の大晦日の晩。 昔は酒が好きで、仕事をしていたようなもんだ、口幅った い言い方だけど、今の道楽は仕事だな。 お得意先の旦那のところに、いい魚 を持って行く。 ありがとうって、子供まで言うんだ。/えッ、嘘ついた、だ ました。 あの時の、男の料簡がわかるか。 自分で自分がやになった。/手 を上げろ、お前の言う通りだ。 寄場送りになっていた。 寒い思いをして、 年を越さなきゃあならなかった。 お前が夢にしたおかげだ。 おこっちゃあ いねえ。/大きいので、もらっていいか。 お前も呑め、いい色だ。 いや、 やめておこう、また夢になるといけねえ。

 「三木助をぶっ飛ばせ!」とぶっ壊したという評判の、権太楼の「芝浜」は、 案外まともで、われわれも無事に越年、平成18年を迎えることが出来たのだ った。

藤原正彦夫人の批評2006/01/02 08:55

 元日の朝日新聞社説が「武士道をどう生かす」、藤原正彦さんの『国家の品格』 をこういうふうに使ったのは、「等々力短信」の方が早かった(エヘン―大新聞と張り合って、どうする)。

 藤原さんの本で面白かったのは、奥さんが登場する個所だった。 いちばん 身近で見ている奥さんの評は、まあいずこも同じ辛口で、藤原さんの話の半分 は誤りと勘違い、残りの半分は誇張と大風呂敷だそうだ(私は文章の中に、つい 長年の寄席通いで身についたくすぐりを入れて、いい年をしておちゃらけるの はやめなさいと、いつも言われている)。 藤原さん自身は、まったくそうは思 わないけれど、そういう意見のあることは、あらかじめお伝えしておきます、 と本の始めの方に書いてある。

 通常美徳とされる「正直」も、常に美徳であるとは限らない、という話で、 本当のことを言ってはいけない時、嘘をつかざるをえない時は、いくらでもあ る、という。 藤原さんの場合、とりわけ奥さんの前でそれが多い気がするそ うだ。

 第三章「自由、平等、民主主義を疑う」については、私も藤原夫人の評に近 い意見を持つものだが、「平等」もフィクションだという部分で、藤原さんは小 学校の時から勉強はめざましく出来たが、女性にはいっこうにもてなかった、 と書いている。 いまだに何とかならないかと思っているけれど、世界中の女 性の目がくもっていので、どうにもならない。 人の能力はなにひとつ平等で なく、夫婦喧嘩では奥さんにすら敵わない、とある。

散歩と般若心経2006/01/03 08:43

 元日から、朝の散歩はやっている。 元日はさすがに人が少なかった。 犬 を散歩させている人も、いつもより少ない。 散歩していて気がついたのだが、 カラスは張り紙が読めて、カレンダーの知識もあるらしい。 年末にゴミ収集 が終った後、連中の姿を見かけないからだ。

 ゴミ集積所に、手書きの張り紙があった。 暮でゴミ収集が終ったので、以 後、出さないようにというのだが、「悪物は保険所に通報するので出すな」と、 書いてある。 笑ってしまう。 こういうのに誤字では、迫力に欠ける。 朱 を入れたくなる。

 散歩は少し早足のほうがいいと聞く。 「オいっちにさんし」と、リズムを 取ると、早く歩ける。 そういえばアメリカの映画で、新兵の訓練に声をかけ て歩かせる文句が、字幕で見ていても、なかなか面白かった。 「なんだ坂、 こんな坂」とか、「独立自尊是修身」や「戯去戯来」を、試みる。 そういえば 脳ドックのMRIで、あのリズムに「般若心経」が合うことに気がついた。 「ギ ャーテー、ギャーテー、ハラギャーテー、ハラソウギャーテー、ボウジーソワ カ」「色即是空空即是色」「フーショウフーメツ、フークウフージョウ、フーゾ ウフーゲン」。 これも、散歩に合う。 父は毎日のように、何千枚と写経して いた。 「門前の小僧」、断片的には知っている。 みんな覚えてやろうか、な どと思う。 先日は高村光太郎の「般若心経」の字が、とてもいいのを知った。  新井満さんが「般若心経」を現代語訳した本が出たというので、本屋で見てみ ようとしたら、売り切れだという。 だれかタレントでも、すすめたのかな。

判官贔屓のスポーツ観戦2006/01/04 09:37

 「鞍馬より牛若丸が出でまして、その名も九郎判官(ほうがん)」というのは、 大きな庭のある家の奥様が発する、落語「青菜」の重要なセリフだ。 「判官 贔屓」は、NHKが一年をかけて解説しその数を増やした、九郎判官源義経の 薄幸に同情すること、転じて、弱いものに同情することなのは、ご存知の通り。

 正月は、もっぱらテレビのスポーツ中継を見て過ごす。 2日のラグビー全 国大学選手権の準決勝は、同志社と関東学院、法政と早稲田の試合だった。 第 一試合では同志社、第二試合では法政を応援してしまう。 かつての同志社は、 平尾や林や大八木らが活躍して強かった(もう20年にもなるらしい)。 後半盛 り返して2点差まで迫った時は、もしかしたらと、思わせた。 俊敏な動きが 目立った関東学院の有賀が、加速をつけて切れ込んでから流れが変り、結局は 関東学院が決勝に進出した。 第二試合。 このところの早稲田は、だんぜん 強い。 インタビューに応じる清宮監督のあの不敵な顔は、見るのもいやであ る。 だから法政をずっと応援していたのに、ワントライしか取れなかった。

  3日は、ライスボウル。 オービック・シーガルズ対法政。 法政は慶應を こてんぱんにした相手だが、社会人対学生となると、どうしても法政を応援し てしまう。 だいたい黒い外人がまざっているのは、ずるいではないか(その前、 箱根駅伝でも「日本大学」に黒い外人が走っていたのには、何か違うのではな いか、と思った←偏見)。 日本武士道の美しさに、もとるような気がする。 試 合は法政が中盤がんばって、うまく勢いに乗れば、あわやと思われたが、結局、 序盤の相手外人選手の活躍による、あれよあれよの失点を挽回できなかった。

“ウィキペディアWikipedia”の「義経」2006/01/05 08:22

 インターネットのフリー百科事典“ウィキペディアWikipedia”というのが ある。 みんなで修正しながら、作り上げていくという考え方が、素晴しい。 一度、覗いてみたいと思いながら、なかなか行かなかった。 ようやくつない で、試みに「源義経」の項目を見てみたら、いくつかの新知見があった。

(1) 義経の正室の名は郷御前(河越太郎重頼の娘)、女子があり、名は亀鶴御前。  藤原泰衡が文治5年(1189年)閏4月30日、500騎の兵をもって10数騎の義 経主従を衣川館に襲った時、義経は一切戦うことをせず持仏堂に篭り、まず 正妻郷御前と4歳の女子亀鶴御前を殺害した後、自害して果てたとされる。

(2) 義経には、亀鶴御前のほかに、男児一人、女児一人があった。 男児は愛 妾の白拍子静御前との子で、出産後間もなく鎌倉の由比が浦に遺棄された。  女児は、これより先、頼朝の挙兵前、奥州で数年を送っていた間に娶った妻 から生まれ、後に伊豆の源有綱(摂津源氏の源頼政の孫)に嫁いだ。

(3) 近年の研究。 菱沼一憲(国立歴史民俗博物館科研協力員)は著書『源義経 の合戦と戦略―その伝説と実像―』(角川選書、2005年)で、頼朝との対立の 原因について、無断任官問題は『吾妻鏡』の創作であり、義経は頼朝の代官 として、平家追討という軍務と、朝廷との良好な関係を構築するという相反 する任務を遂行し、軍事・政治両面で成果を上げた。 つまり「政治的セン スの欠如」という評価も当らないという。 鎌倉政権内部には、発足当初か ら「親京都派」と「東国独立派」の路線対立があった。 東国御家人は親京 都政策と武家棟梁の権威・権力による支配に反発していた。 このことが、 親京都政策の先鋭であり、武家棟梁権の代行者である義経の失脚を招いたの である、とする。