靖国神社について2006/01/22 08:59

 平山洋さんの講演後の質問で、福沢の靖国神社についての意見を訊いた人が いた。 明治期以降の日本思想史がご専門の平山さんは、靖国神社問題にも興 味を持っているとして、若干の意見を述べた。 福沢については、「靖国神社万 歳論者」というのはウソだと言った(高橋さんの本と言ったのは、高橋哲哉著ち くま新書『靖国問題』だろうか)。 福沢は、井伊直弼を暗殺した犯人が合祀さ れているのはヘンな気がすると、書いている(この記述がどこにあるのか、私に はわからない)。 ともかく、福沢の1890年の意見によって、それは日清戦争 前だし、日露戦争も今次大戦も福沢の死後のことなのだから、現在の問題を扱 うことはできない、と平山さんは述べた(この考え方は正しいと思う)。

 家に帰り、「等々力短信」に靖国神社のことを書いたのを思い出して、第891 号「靖国神社と大村益次郎」を読んだ。 12月15日の日記に「大村益次郎(村 田蔵六)がやった塾の名が「鳩居堂」だったような記憶があって」と書いた、そ れが、この短信だった。 自分で書いて、自分で忘れていたのである(出典は富 田正文先生の『考証 福澤諭吉』上巻80頁、137頁、149頁)。 そんな訳で 2000年10月5日の「等々力短信」第891号「靖国神社と大村益次郎」を、別 に掲げる。 この号は、『五の日の手紙 4』の本にした後、最初の号だった。  これから、折にふれ、発行済の「等々力短信」のブログ化をしたいと思った。

大村益次郎と靖国神社<等々力短信 第891号 2000(平成12).10.5.>2006/01/22 09:00

 周防(山口県)の人村田蔵六、のちの大村益次郎は、緒方洪庵の適塾に学ん だ。 福沢諭吉が適塾に入門した頃には、蘭学によって宇和島藩に迎えられて いた。 福沢が英学を志した安政6(1859)年には、江戸の番町で鳩居堂とい う蘭学の家塾を開き、蕃書調所教授手伝をしていた。 福沢の側から村田をみ ると、『福翁自伝』に、その時いっしょに英語を学ぼうという福沢の誘いを断わ ったのと、4年後の文久3(1863)年6月に緒方洪庵の葬式で、馬関(下関) で長州藩が外国船を砲撃した長州から帰ったばかりの村田が、すごい剣幕の攘 夷派に転向していて、福沢たち蘭学仲間は「村田は変だ、ソーッとしておけ」 といったという、おかしな人物としての印象だけが残る。 村田は、木戸孝允 に見出され、その年8月長州に帰り、次第に藩の軍政上の重要な役割を担い、 名も大村益次郎と改め、戊辰戦争では新政府軍の中枢にいて全作戦を統轄した。

 九段の靖国神社に行くと、大村益次郎の銅像がたっている。 なぜかは、司 馬遼太郎さんの『この国のかたち 四』「招魂」を読むまで知らなかった。 戊 辰戦争での「官軍」の戦死者達は、あたらしく成立しようとする新国家のため に死んだのだった。 戊辰戦争の勝利によって、なんとか内外に公認されこと になった新政府には、その戦死者達の死を、封建体制下の藩同士の「私戦」に よる「私死」でなく、「公死」として、時勢に先んじて「国民」として祭祀する ことが必要だった。 でなければ、新しい日本国は、「公」とも、国家ともいえ ない存在になってしまう。 大村益次郎の発議によって、明治2(1869)年、 九段に招魂社が出来たのは、そういう事情による。 司馬さんは、そう説明し て、「九段の招魂社は、日本における近代国家の出発点だったといえる」とまで いう。 大村は、この発案をふくむ国民国家(藩の否定)思想、特に四民によ る志願制の国民軍の創設に反対する激徒のために、この年のうちに暗殺された。

 特筆すべきは、明治2年6月につくられた招魂社が、死者を慰めるのに、神 仏儒いずれにもよらず、超宗教の形式をとったことである。 司馬さんは、大 村が、公の祭祀はそうあるべきだと思っていたにちがいないという。 十年後 の明治12年、この招魂社が別格官幣社靖国神社になり、神道によって祭祀さ れることになる。 今日、靖国神社をめぐって、毎年くりかえされるゴタゴタ は、この大村の素志に立ち返れば、すべて解決し、諸外国の元首来日の際に花 束をささげる場所も出来そうに思う。