安野光雅さんの年賀状 ― 2012/03/22 04:46
安野光雅さんの『絵のある自伝』(文藝春秋)を、家内が読み終わったので、 ちょいと覗く。 「結婚のこと」の終わりに、こんな話があった。 一男一女に恵まれた。 長 男がまだ四歳のころ、母上と口論していたら、その子が「おばあちゃんもすきだよー、お父ちゃんもすきだよー」といって泣いた。 その涙に、安野さんは、 深く反省し、そのとき以来、喧嘩はしていない、という。 長女がまだ三歳の ころ、指圧師に来てもらった。 肩を強く指圧してもらい、顔をしかめて痛み に耐えていたところ、その子は物差しを見つけてきて、指圧師の頭をぶった。 安野さんは、自分の子どもの、四歳までのありようは、そこを支点とし、その 後の子どもがするであろうあらゆることと釣り合いがとれているというが、本 当にそうだとおもう、と書いている。
印刷による年賀状を出すようになり、添え書きを省くために、1958年から珍 なる年賀状にしたという。 1971年は、ハガキの隅が折れ曲がっているような 赤線の枠を印刷し、「折り曲げて」出来た空きは、紙を切り取った。 1976年 は、切手を貼る場所に孔(あな)を開けて切手を貼り、その切手の裏に賀正と書 いた判子を押した (息子さんのアイデア)。
1970年、「謹賀新年/旧年中は世間の皆様にいろいろ御迷惑をおかけしまし た。/今年は真人間になってまじめに働きますのでどうかよろしくおたのみも うします。/昭和四十五年一月元旦/小金井市猫町三ノ四ノ五/小金井刑務所 八一独房三〇二三号/安野光雅」 印刷は、謹賀新年の字の号数が不揃いで、 横向きの字もある、いい加減なものにした。 ○に検の赤印を押した上、所長、 看守長、看守の検印をつくり、健在だった母上に押してもらった。 戌年にち なんで、犬井、犬塚、犬飼とした。
高校受験をひかえた息子さんの担任が心配して、裏の家の人に様子を見て来 てくれと頼んだのが「第一報」で、90パーセントの人は、嘘を見破らない、た ちのいい人たちだった。 神戸の親戚から電話がかかり、嘘だとわかったあと、 おばあちゃんが「冗談もほどほどにしろ」とカンカンに怒った。 年賀状を出 していない人たちのところへも、噂は行く。 日本橋三越の前で、二人の知人 に会った。 Mが肩をたたいて「おい、いつ出てきたんだ」といった。 その 連れの謹厳な人は、お葬式の挨拶のように口の中で「ごにょごにょ」といった。 お仲人さんからは長い手紙が来た。 「前略 いろいろ憶測してみますが、意 外の出来事があったにちがいないとおもいます。今大学問題がやかましく言わ れていますがそのことに関係がおありなのではないでしょうか。(中略)学生運 動に釣り込まれての事件でしたら少しも恥ずかしいことはありません。」
たまたま転んで鼻をすりむいていたお母さんに、老人会の仲間が「このごろ の警察はひどい、こんな年寄りを拷問してけがをさせた」と怒ったと、お母さ んが笑った。 「出所して仕事がなかったら、世話をする」という人を始め、 みんなみんなやさしかった。
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