三代・前田利常の生い立ち ― 2014/10/22 06:43
磯田道史さんの『殿様の通信簿』「前田利常1」にある話だ。 天正20(1592) 年、豊臣秀吉は朝鮮への出兵をはかり、日本中の大名を九州に集めた。 肥前 名護屋に築城し、男くさい武将たちがそっくり集結した。 陣中だから、当然、 女はいない。 女がいなければ、男の不満はつのる。 それでなくても、朝鮮 への出兵には異論が多いのだ。 喧嘩狼藉から、脱走まで始まる。 そのあた り、さすがに秀吉は人情の機微に通じている。 「陣中では、さぞ不自由であ ろう。ここで洗濯女を雇うように。国元から下女を呼び寄せるのも勝手次第」 と命令を下した。 機智がはたらく秀吉は、さらに一言加えた、「嫉妬するよう な妻で、下女を遣わさないようなところは、妻本人が来なさい」と。 こうい われると、妻は来られない。 のこのこ出て行けば、物笑いの種になる。 そ れをいいことに、武将たちはこぞって、妻よりも若く見目のよい女を洗濯女と して呼び寄せ始めた。
困ったのは前田家で、前田利家の妻まつは、まさに「嫉妬するような妻」で、 気が強い。 ほかの女が夫に近づくなど許せないたちだ。 しかし、秀吉の命 令である。 金沢城で、下女たちに「誰か、肥前名護屋に下る者はないか」と 言った。 まつの性格を知る下女たちだ、声をあげる者がいない。 末席から 「私が行きましょう」と言ったのは、22歳の「ちよ」という娘だった。 まつ は、表向き喜んだふりをしたが、笑顔を見せたのはこの時だけで、その後、何 十年にもわたって、無視しつづけ、無言の苛めをやりつくした、と記録にある。
この小娘には、恐れ知らずの強烈な遺伝子が宿っていて、その遺伝子こそが、 その後の前田家の運命を左右することになる。 名護屋の陣中、利家は55歳 だったが、ちよはすぐに身籠った。 金沢城に戻され、天守の下の暗い局の一 室で、文禄2(1593)年ひっそりと男の子を産み落とした。 介添えは飯炊き 女が一人ついていただけだった。 この赤子こそ、のちの前田利常であるが、 その時は誰も関心を示さず、驚くべきことに、生まれた日さえ、はっきり覚え ている者がいなかったほどだった。 加賀藩では、利常が跡継ぎになってから、 幕府に届け出る正確な出生の日付がわからず、大慌てにあわてて、ちよについ ていた飯炊き女が生きているのを探し出し、11月25日というその日をやっと 確定している。
金沢城には、まつがおり、利家には他にも多くの男子がいた。 赤子は母親 のちよとひっそりと暮らしていたが、かわいくなっていた盛りに、異例にも隣 国越中守山の前田対馬(つしま)のところに里子に出される。 このとき、利 常は「お猿」と呼ばれていた。
6歳の時、草津へ湯治に行く利家が寄り、初めて親子の対面をする。 利家 は「お猿」を見て喜び、信長ゆずりの美意識の華美な金箔で飾った刀と脇差を 与えた。 抱き寄せて、ふところに手を入れて肉を触ってみた。 戦国の武士 にとって、筋肉は死活をわけるものである。 事実、「お猿」は、どの子よりも 利家の体つきをよく受け継いでいた。 一年後、利家は死に、「お猿」の兄の利 長が継いで二代となった。
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