もう一つの砂時計、前田利長の寿命2014/10/24 06:44

 (きたるべき豊臣滅亡に前田家が巻き込まれてはならぬ)と、前田利長は考 え、利常という「徳川の若い婿」を藩主に押し立て、隠居して、富山高岡の城 にひきこもった。 そのうち、体に腫れ物ができ、歩くこともできなくなった。  利長は不可解な行動をとり始める。 自ら書状をしたため、徳川方に自分の病 状を知らせ始め、医師の派遣まで頼んだ。 普通、権力者の病状は秘されるも のなのに…。 徳川の医師を招きいれ、自分に毒を盛ることすら可能な状況を つくりだし、そのうえ、もし自分が死んでも、徳川の医師団が疑われぬよう、 「私は毒など食べさせられておりません」と、書き付けしている。

 利長は病床で、伊賀の藤堂高虎からもちかけられた、前田家が将来にわたっ て、徳川家に刃向かうことができなくなるような人事話までのんだ。 家康の 側近・本多正純の弟、本多政重を家老に迎えたのである。 19歳になっていた 利常にも、それを断ることはできないと、言い含めた。 藩の大方針は、藩主 と家老が合議して決めていた時代である。 そこへ「徳川の隠密」ともいうべ き本多政重を入れてしまえば、もはや秘密などあったものでなく、徳川に筒抜 けになる。

 それから三年、いよいよ徳川と豊臣の戦いが迫ってきた。 秀頼からの使者 に利長は、徳川の婿である倅の心底はわからないが、私が生きている内は、隠 居の私の分の軍勢だけは残らず豊臣方に差し上げる、と答える。 前田が二つ に分かれて、敵味方として戦わなければならない深刻な事態も予想された。 そ の絶妙のタイミングで、利長はころりと死ぬ。 「利長様は御自身で毒を飲ま れた」というのが、江戸時代、加賀藩での公然の秘密だった。 真偽のほどは、 わからない。

 利長の死をきくと、家康はただちに動き始めた。 翌月には、豊臣家から片 桐且元(かつもと)を呼びつけ、豊臣家が建てた方広寺の鐘銘に「国家安康」 とあるのを取り上げて、「家康の名前を安の字で腹切りにしているではないか」 と難癖をつけ、大坂攻めの仕度を始めた。 前田家は、この大坂攻めに参戦し た。 服毒死と噂された利長の死によって、前田家は冬と夏の二度の豊臣攻め に加わることができ、徳川政権下で生き残る道がひらけた。